【戦国こぼれ話】戦国大名からトップリーダーとしての資質を学ぶというのは、百害あって一利なし
戦国大名から政治家あるいは経営者のトップリーダーとしての資質を学ぼうという姿勢は、今でも根強く残っている。しかし、それらは根拠のない逸話に基づくもので、問題が多いといわざるを得ない。
■多くは江戸時代に成立した逸話
歴史に学ぶというのは、良いこともある。「戦争をしてはいけない」、「謂れのない差別をしてはいけない」などは、その代表例だろう。まさしく「歴史の教訓」である。
一方で、昔から盛んなのは、戦国大名の領国支配や人生観などから、政治家あるいは経営者のトップリーダーとしての資質を学ぼうという姿勢である。しかし、実に問題が多いといえる。
そもそも、私たちが知る戦国大名に関するユニークな逸話は、江戸時代に成立した編纂物に書かれていることで、史実と認めがたいものが大半である(後述)。
学ぶべき戦国大名の行動が史実か否か不確定なので、そこからがまず大問題なのだ。あるいは、諸大名が行った政策の評価についても、近年の研究で改められたことが多い。以下、確認してみよう。
■豊臣秀吉は戦国一の知恵者だったのか
秀吉と言えば、一介の百姓から天下人に成り上がったことで知られている。その背景として、戦国一の知恵者だったという逸話が数多く残っている。
たとえば、秀吉が主人の織田信長を思いやり、寒い日に草履を懐で温めたなどは、部下としての心構えを説く際に用いられる話である。これが、秀吉の出世の糸口になったという。
あるいは、信長に命じられて、誰もが成しえなかった墨俣城の築城を一夜にして行ったというのも、よく知られたエピソードである。「無理だという前に、知恵を絞れ!」ということになろうか。
しかし、いずれも史実としては認めがたく、創作臭がプンプンとする。そんなことを「ビジネスの場に生かそう」などとは、とても言えないというのが正直な感想だ。
■黒田官兵衛は秀吉から恐れられていたのか
黒田官兵衛も戦国時代の知恵者で、あまりの頭脳の鋭さに、あの秀吉ですら恐れていたといわれている。それゆえ、秀吉はあえて官兵衛を重用せず、遠ざけたというのだ。
たとえば、天正10年(1582)6月の本能寺の変で織田信長が横死した際、官兵衛は秀吉の耳元で「ご運が開けましたな(秀吉の時代が来た、という意)」と囁いたという。
秀吉は官兵衛の言葉を聞いて、「なんと、恐ろしいやつだ!」と驚愕したというが、これも史実なのか疑わしい。
それゆえ、秀吉は官兵衛が自身の立場を危うくすると恐れ、遠ざけたというがおかしな話である。
というのも、たかだか豊前中津に十数万石の知行しか持たない官兵衛が、秀吉に対抗するなどありえない話である。
官兵衛は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に際して、天下取りを狙ったと言われているが、こちらも根拠のない妄想にすぎない。当時の政治情勢からして、不可能なことである。
■織田信長の政策は革新的だったのか
信長の政策(楽市楽座など)も革新的な政策だと評価されるが、実際はすでにほかの戦国大名が実施していた政策であることが明らかにされている。信長が新規にはじめたものではない。
宗教政策や朝廷政策も同じことで、信長の神や天皇も恐れない「聖域なきタブーへの挑戦」が強調されるが、こちらも近年の研究で改められ、信長の保守的な姿勢が指摘された。
信長と言えば、理想の上司として上位にランクインされるが、その革新的な政治姿勢なりは、多くの誤解に基づいていたのである、だから、信長の姿勢が政治やビジネスの理想像と言えるのか疑問である。
■まとめ
私たちが理想とするトップリーダーたる戦国大名の優れた業績の多くは、理想的な逸話や伝承、あるいは誤解に基づいており、史実であると言い難いものも多い。
したがって、戦国大名の姿勢なりを政治家や経営者に求めるのはおかしな話である。単なる逸話であることが多く、参考にならない。
私たちは、厳しい現実に直面すると、過去の英雄に理想像を求め神聖化する。そういう側面があるということを覚えておきたいものである。