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右翼からリベラルに変わった? 故・鈴木邦男さんについて考えることは日本の言論界を考えることでもある

篠田博之月刊『創』編集長
一水会の「鈴木邦男お別れの会」(筆者撮影)

 3月23日、一水会主催の「鈴木邦男さんお別れ会」に参加した。鈴木さんは一水会代表を降り、「脱右翼」宣言もしていたし、右翼陣営からは「裏切者」などと非難されることもあったのだが、会場には民族派らしいいかつい感じの人たちも多かったように思う。「新右翼」と呼ばれた新しい潮流を作った鈴木さんについては、今でも敬意を表する右翼も少なくないはずだ。その死に際してこんなふうに民族派らしい人たちが集まるというのは、鈴木さんの原点を再確認させた。

 鈴木邦男さんはもう30年近く私の編集する月刊『創』に連載を続けてきた。1月に他界した後、発売中の『創』4月号で大きな追悼特集を組むと同時に、遺稿ともいえるこの何年かの連載を単行本にまとめる作業を今やっている。「右か左かというのはどうでもいい。そんな段階は超えた」と言っていた鈴木さんだが、直近のこの何年かの文章はなかなかすごい。安倍政権下で日本が急速に右へぶれていった動きに対して、安易なナショナリズムや排外主義に強い警告を発している。鈴木さんが変わったのではなく日本の座標軸が右へずれたせいで相対的立ち位置が変わったという指摘は当たっているといえよう。

鈴木さんの自宅が放火されたことも(本人提供)
鈴木さんの自宅が放火されたことも(本人提供)

 だから突然の死という現実に際して、鈴木邦男とはどういう存在だったのか、議論し、考えてみることは、日本の言論界を考えるうえで大事なことと言えよう。そんな思いから、4月2日(日)午後2時から都内の如水会館で、多くのジャーナリストや言論人が集まって、鈴木さんについて議論する機会を設けた。

 一水会主催のお別れの会は、政治家の挨拶から始まり、厳粛なものだったが、冗談が言えないような雰囲気でもあった。今回は現実を笑い飛ばす松本ヒロさんのような方にも参加してもらうことになっている。予定されている出席者や発言者などは下記だ。

 これだけのメンバーが一堂に会するのも鈴木さんならではだが、本人はあちらの世界で「え、そうなの?」とはにかんで笑っているかもしれない。問い合わせ先などはこの記事の末尾に書いたので、一般の市民の方々もぜひ議論に参加してほしいと思う。

田原総一朗、佐高信、宮台真司、森達也、高野孟、小林節、木村三浩、吉岡忍、武田砂鉄、金平茂紀、松元ヒロ、斎藤貴男、白井聡、雨宮処凛、辛淑玉、松本麗華、綿井健陽、平野悠、中村真夕、飛松五男、大浦信行、香山リカ、有田芳生、山本直樹、二木啓孝、椎野礼仁、小西隆裕、他。

 

 このヤフーニュースの記事は単なるそのお知らせでなく、鈴木邦男さんとはどんな存在だったのか。30年以上つきあった私から見えた鈴木さんの一面について書いていこうと思う。

「言論の覚悟」を貫いた鈴木邦男さんの軌跡

 1980年代に最初に会った頃の鈴木さんは若き右翼青年といった印象だった。2012年に行われた一水会結成40周年大会では、日の丸を掲げた壇上で右翼の人たちが顔を揃えていたが、会場には若松孝二監督など多彩な人脈が顔を見せていた。

 もうその頃から鈴木さんはリベラルな言動が目立ち、一部の右翼の間では「裏切り者」などと呼ばれてもいた。

2012年、一水会結成40周年大会(筆者撮影)
2012年、一水会結成40周年大会(筆者撮影)

 でも長くつき合って思うのだが、恐らく鈴木さんの根本は変わっていないのだと思う。

 それは鈴木さんの好きな「言論の覚悟」という言葉にあらわれている。

 例えば『創』1986年4月号の天皇タブー特集の中で、鈴木さんはこう語っていた。

《活字だって立派な凶器だ。人を斬りもすれば殺しもする。その自覚もなくて人を傷つけておきながら、ちょっと抗議されると本を回収し、「これは右翼の暴力だ」「言論統制だ」「タブーだ」などと泣き言をいう。いい大人が余りにもミジメだろう。》

 2002年に刊行された『言論の覚悟』のあとがきでは、こう書いている。

《もの書きは全て、自分の住所と電話番号を公開すべきだと僕は思っている。それ位の覚悟と自覚を持つべきだと思う。》

《反響は全て引き受けるべきだ。少々恐ろしくとも引き受けるべきだ。それが嫌なら、もの書きという仕事をやめるべきだ。そんな覚悟のない人間が、偉そうにきれい事を言ってるから、言論はどんどん下劣になり、言論の自由がなくなるのだ。》

 30年近く前もその後も全く変わらない鈴木さんの心情だ。

著書に自宅の住所と電話番号を掲載

 鈴木さんは全ての著書に自宅の住所と電話番号を載せていた。当然様々なリアクションを受け、自宅が放火されたこともあった。

 鈴木さんが「新右翼」と呼ばれるようになったのは1975年に出版した『腹腹時計と〈狼〉』がきっかけだった。三菱重工爆破事件を起こした新左翼メンバーの一人が、逮捕後、服毒自殺した。彼らのストイックな生活ぶりや自分の思想や言論に命をかけるという姿勢に、左右の思想の違いを超えて、鈴木さんは共感したらしい。当時は極左と極右の共鳴などと言われた。

2001年、日比谷野音集会で壇上から叫ぶ鈴木さん。後ろは森達也さん(筆者撮影)
2001年、日比谷野音集会で壇上から叫ぶ鈴木さん。後ろは森達也さん(筆者撮影)

 その後、前述したように鈴木さんは、リベラル派というべき発言が多くなるのだが、行動派ぶりは右翼時代と変わらなかった。この写真は、2001年、個人情報保護法に反対したジャーナリストらが日比谷野音で開催した集会でのことだが、発言を予定されていた宮崎学さんに対して当時対立していた活動家らが押し掛けた。宮崎さんは事前に察知して集会には現れず、押し掛けた人たちは主催者側と押し問答となった。

 その時、壇上から「君たち、言いたいことがあるなら上がってこい! ここで議論しようじゃないか」と熱弁をふるったのが鈴木さんだった。その会の中心メンバーでもなんでもないのだが、こういう場面になると血が騒ぐのかもしれない。最前列の中心部分に鈴木さんは立ちはだかったのだった。写真を見ると、鈴木さんの後ろには森達也さんが写っている。熱くなっている鈴木さんと、引いた雰囲気の森さんが対照的だ。

映画『ザ・コーヴ』上映めぐる現場での攻防

 その鈴木さんの行動派ぶりがいかんなく発揮されたのは、2010年以降、日本のイルカ漁を批判したアメリカ映画『ザ・コーヴ』をめぐる騒動の時だった。それを「反日映画」と非難したネトウヨ中心のグループが映画館に押しかけ、抗議行動を展開した。配給会社の社長の自宅まで街宣がかけられ、横浜の映画館の支配人の自宅に押しかけた抗議グループは、留守を預かっていた高齢の両親にまで抗議を行った。

 私は抗議が行われる現場にはほとんど足を運び、いつも鈴木さんと顔をあわせていたが、鈴木さんのすごいところは、映画館前での抗議グループにつかつかと歩み寄り、「映画を観もしないで上映やめろと言うのはおかしいじゃないか」「君たちがやっているのはただの弱い者いじめだ」と詰めよったことだ。抗議側も激しく応酬し、緊張した空気に警官隊がばたばたと近寄って取り囲んだ。

『ザ・コーヴ』上映劇場前でネトウヨに挑む鈴木さん。右手前は支配人(筆者撮影)
『ザ・コーヴ』上映劇場前でネトウヨに挑む鈴木さん。右手前は支配人(筆者撮影)

 上の写真は、当時最も激しい上映妨害を受けた横浜の映画館前だ。右手に後ろ姿が見えるのは劇場の支配人だ。この支配人は劇場を背にしていつもこんなふうに抗議グループに対峙したのだが(劇場支配人のこの行動もすごい)、その視線の先には、デモ隊に詰め寄っている鈴木さんの背中が見える。

 現場は道路を隔てて、支配人が立っている側には、「恥ずべきは上映妨害」などと手製のプラカードを掲げる市民も立っている。そんなふうに双方がにらみあっている中を、鈴木さんが道路を渡って抗議側に近づいていくのがいつもパターンだった。

 全国公開日の7月3日は渋谷のイメージフォーラム前に上映反対派と上映を支持する市民、それに警官隊が多数おしかけ、もみあいとなった。その騒乱状態の中で、抗議団に詰め寄っていた鈴木さんはハンドマイクで殴られ、顔から出血した。写真は、その鈴木さんが殴られた瞬間を捉えたものだ。

ネトウヨに殴打される瞬間の鈴木さん(筆者知人提供)
ネトウヨに殴打される瞬間の鈴木さん(筆者知人提供)

 その夜、新宿のロフトプラスワンではその問題をめぐって討論が行われたが、鈴木さんは「警官が当然、殴った男を逮捕するのかと思ったら、僕に近づいてきて『これ使って』とティッシュをくれただけだった」と笑いを誘った。

『靖国』上映中止に「責任は僕にあります」

 この『ザ・コーヴ』をめぐる騒動には前段があった。2年前の2008年に起きた映画『靖国』上映中止騒動だ。この時は自民党保守派の動きなどを受けて、映画館が自粛の連鎖に陥り、公開前の3月末に全館上映中止を決定。社会に衝撃が走った。日本ペンクラブなど言論表現団体が次々と声明を発するなか、4月10日に参議院議員会館で開かれたジャーナリストや言論人の共同記者会見で、私の隣に座っていた鈴木さんはこう発言した。

「すべての責任は僕にあります。反日だろうと何だろうと、公開したうえで、賛成・反対の議論をすればいいと思って、右翼の人たちを説得しました。でも力がなくて残念です。全館上映中止になったという話を聞いた時には悔しくて涙を流しました」

 その後、鈴木さんや木村三浩さんらの尽力で、新宿のロフトプラスワンで、まず映画を観てから批判しようと、右翼団体を集めての上映会が開かれたり、世論の後押しもあって、5月から『靖国』は上映再開。当初より大規模に公開が拡大した。

『ザ・コーヴ』での鈴木さんの行動は『靖国』上映中止騒動の反省に立ったものだった。

映画『天皇伝説』に右翼団体が猛抗議

 映画『靖国』が大きな社会問題になった2008年頃、鈴木さんが関わっていたもうひとつの映画は、渡辺文樹監督の『天皇伝説』だった。渡辺監督も『創』には何度も登場したが、異色の表現者だ。自分で撮影・製作した映画を各地の公民館などで上映するのだが、映写機も自分で回す。キップをもぎるのは奥さんで、一時期は娘も連れて一家で機材を積んで全国を回っていた。

 映画はタブーに挑んだものが多く、天皇をテーマにしたものも幾つかあった。最も有名なのが2008年公開の『天皇伝説』で、上映会場には全国から右翼団体が抗議に集まり、騒然とした雰囲気となった。

『天皇伝説』上映会場につめかける機動隊(筆者撮影)
『天皇伝説』上映会場につめかける機動隊(筆者撮影)

 写真は2008年10月14日、横浜市の開港記念会館での上映会だが、開場1時間前からたくさんの街宣車が「国賊・渡辺を叩き出せ!」などと叫んで付近を走り回った。受付付近にも戦闘服の右翼が押し掛け、渡辺監督と激しい応酬がなされるのだが、すごいのは鈴木邦男さんもそこに割って入って論戦を繰り広げたことだ。

『天皇伝説』上映に抗議する右翼団体(筆者撮影)
『天皇伝説』上映に抗議する右翼団体(筆者撮影)

 ここでも「映画を観てから批判すべきじゃないか」という主張を繰り広げるのだが、「何を文化人面してるんだ!」「お前よりも渡辺の方が腹がすわってるぞ」などと激しい言葉が浴びせられた。

 もちろん鈴木さんは天皇を尊崇する立場だから渡辺監督とは意見が違うのだが、なぜシンパシーを感じていたかと言えば、体を張って上映を続ける渡辺監督への共感だろうと思う。右翼と張り合うだけでなく、公安警察からも渡辺監督は何度も逮捕されるなどの仕打ちを受けていた。映画のポスターを無許可で電柱に貼ったといった微罪なのだが、上映前夜に渡辺監督のもとに警察が踏み込んたり、逮捕することで上映そのものを潰すといったことも何度もあった。

 鈴木さんはそういう渡辺監督と親しくつきあっていたが、2人の関係がどんなふうだったかは、2008年10月30日に行われた新宿ロフトプラスワンでの討論をヤフーニュースに公開したのでご覧いただきたい。天皇タブーというテーマで、鈴木さんと渡辺さんのトークを行ったのだが、会場に何人もの右翼がやってきて渡辺さんや鈴木さんを追及。一触即発の激しい応酬が行われた。下記リンクからその場外乱闘のトークに飛ぶことができる。

https://news.yahoo.co.jp/articles/be68247a5ec57b2d98992231766ca14af3efaf28

『天皇伝説』をめぐる右翼とのバトルトーク  渡辺文樹/鈴木邦男

ネトウヨのヘイトスピーチを強く批判

 この20年ほど、鈴木さんは日本の右傾化や憲法蹂躙について批判を強めていった。「脱右翼」とも言われたのだが、日本の言論・思想の軸が右に大きくぶれていくことに鈴木さんなりに危機意識を持ったのかもしれない。国旗・国歌を強制するといった自称「愛国主義」に、鈴木さんは疑問を呈し続けた。

 特にネトウヨと言われる人たちが登場して、民族差別や排外主義があらわになると、鈴木さんはこれを強く批判して対立することになった。

2010年3月、ヘイトスピーチに抗議する集会(筆者撮影)
2010年3月、ヘイトスピーチに抗議する集会(筆者撮影)

 この写真は2013年3月14日、参議院議員会館で開かれた「排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会」で挨拶する鈴木さんだ。有田芳生さんや安田浩一さんらとともに、鈴木さんはヘイトスピーチには一貫して反対してきた。辛淑玉さんらの「のりこえねっと」の共同代表も務めた。

2012年連合赤軍事件殉難写追悼の会で(筆者撮影)
2012年連合赤軍事件殉難写追悼の会で(筆者撮影)

 鈴木さんが関わるテーマや領域は、年を追うごとに広がっていった。上の写真は2012年2月に開催された「連合赤軍事件殉難者追悼の会」で発言する鈴木さんだ。連合赤軍関係者との交流は深いものだったし、日航機「よど号」をハイジャックしてピョンヤンに渡った元赤軍派のメンバーとも親しかった。

2015年、安重根記念館前で(同行者撮影)
2015年、安重根記念館前で(同行者撮影)

 2015年にはソウル大学に招かれ、「私はなぜヘイトスピーチを嫌うのか。日本の右翼がみる日本のネット右翼」というテーマで講演した。写真はその時訪れた「安重根記念館」だが、安重根と言えば伊藤博文を暗殺した人物で、日本ではテロリスト、韓国では愛国的英雄とされている人物だ。

「自由のない自主憲法」よりは「自由のある占領憲法」の方がましだ、というのもあちこちで引用される鈴木さんの言葉だが、鈴木さんは一時期、日本国憲法の成り立ちについても関心を示し、2007年には「九条と日本」というシンポジウムに招かれてアメリカに渡っている。そこで、日本国憲法の「女性の権利」の部分を書いたと言われるベアテ・シロタ・ゴードンさんと対話したことも鈴木さんに影響を与えている。

福島菊次郎さんと(筆者撮影)
福島菊次郎さんと(筆者撮影)

 体を張って表現・言論活動を行っている人には共感を示してきた鈴木さんが2014年頃、接していたのが反権力の報道写真家・福島菊次郎さんだ。2012年に福島さんを追ったドキュメンタリー映画『ニッポンの嘘』が公開された後、各地で上映が行われ、その上映会や福島菊次郎写真展に、鈴木さんと一緒に福島さんを訪ねた。

 『創』は福島さんとは古くからのつきあいで、ぜひ鈴木さんとの対談をと申し入れ、福島さんも一時了解したのだが、実現しなかった。福島さんは過去、右翼の攻撃で写真展が中止になったこともあるからと言い、そのつど私は「鈴木さんはそういう右翼と全く違います」と説得。上映会の打ち上げでは鈴木さんと同席して語り合った福島さんだったが、住んでいるのが瀬戸内海の島だったこともあり対談は最後まで実現しなかった。

 長い間連載を続ける間、鈴木さんは様々な人と対談を行ってきたが、実は対談を断られたことも少なくない。マスコミはずっと鈴木さんを右翼として扱ってきたし、鈴木さんを知っている人でなければ、右翼との対談ということで、二の足を踏む人もいるのが現実だった。

 実は前述した個人情報保護法反対運動の時も、当時いろいろな関連イベントがあったのだが、鈴木さんを呼ぼうとしたら反対した左翼の人もいた。日比谷野音の集会では開催側の代表かのように立ちはだかった鈴木さんだが、実態はそういうことだった。

 鈴木さんはそれを「右翼の原罪」と表現していた。

2018年頃から病気との闘い

 鈴木さんは2018年頃から急に転倒するようになり、同時に元気がなくなっていった。以前『創』で連載対談を行っていた永六輔さんのパーキンソン病と症状がそっくりだったので、私は早くから専門医に診てもらった方が良いとアドバイスしていたのだが、治療を受けても症状は改善されなかった。

転倒直後の鈴木さん(知人撮影)
転倒直後の鈴木さん(知人撮影)

 ここに掲げたのは2018年11月に転倒した直後の写真だ。傷跡が痛々しい。

 私も入院中の病院にお見舞いに行ったことがあったが、手術の後でベッドに横たわりながら開口一番、「忙しいのにわざわざ来ていただいて…」と丁重にお礼を言うところが鈴木さんらしかった。

 何度かの入退院を繰り返した後、長年住み続けてきた「みやま荘」では段差があることなど治療しながらの生活が難しいとして、2020年1月31日に引っ越した。みやま荘を出るというのは鈴木さんにとっても大きな出来事だったに違いない。

 その後、鈴木さんは外部とも面会謝絶で治療に専念してきたが、今年1月11日、帰らぬ人となってしまった。

 鈴木さんは日本の言論界で独特の立ち位置だった。いま言論界が混迷するなかで、鈴木さんのようなポジションからの発言はとても貴重で、その意味でかけがえのない存在だったと思う。とても残念だ。今はただ、安らかにと祈るしかない。

「鈴木邦男さんを偲び語る会」に論客集結 

 前述した4月2日の「鈴木邦男さんを偲び語る会」だが、自宅にまで街宣をかけられた映画『ザ・コーヴ』の配給会社社長や、鈴木さんの高校時代の同窓生、かつて鈴木さんが『SPA!』に連載していた「夕刻のコペルニクス」の担当者など、大勢の関係者も参加する。

 一般市民も参加可能なのでぜひ足を運んで、一緒に鈴木さんについての議論に参加してほしい。会場の都合で参加する方は必ず予約をしていただきたい。

会場や詳しい内容は下記をご覧いただきたい。

http://www.tsukuru.co.jp/

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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