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「国旗損壊罪」はなぜ「表現の自由」の問題となるのか

志田陽子武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。
国旗は、応援、失望、怒り、気づきへの訴えなど、さまざまな表現に使われる。(写真:アフロ)

「国旗損壊罪」法案

 日本を侮辱する目的で日本国旗を傷つける行為を罰する「国旗損壊罪」を盛り込んだ刑法改正が、今国会で審議される可能性が出てきた。

 1月26日、自民党の議員有志でつくる「保守団結の会」所属の議員らが下村博文政調会長と面会し、「国旗損壊罪」を盛り込んだ刑法改正案を今国会に議員立法で提出するよう要請し、27日、下村氏は記者会見でこの提出を容認する考えを示したという。

自民・高市氏ら「国旗損壊罪」国会提出要請 外国国旗と同等の扱いを

 改正案は日本の国旗を損壊するなどした場合、2年以下の懲役か20万円以下の罰金を科す内容だと伝えられている。26日以降、各紙がこの件について報じている(日経新聞デジタル1月26日記事(共同通信)、朝日新聞デジタル1月28日記事、毎日新聞デジタル1月26日記事などを参照)。 

 同趣旨の法案は2012年の国会で一度、提出され、廃案となっている。これをもう一度、ということだろうか。

表現活動にも影響?

 この件が芸術分野の表現活動にどう影響してくるかについては、以下の記事を「美術手帖」に書いたので、詳しくはこちらを参照してほしい。

自民党有志が新設目指す「国旗損壊罪」は表現の自由を脅かすか? 憲法学者が解説(美術手帖web 2021年2月2日掲載)

 この法案が「表現の自由」に影響を与えることについては、2012年の法案に関して出された日本弁護士連合会の声明を見るのが一番だろう。

刑法の一部を改正する法律案(国旗損壊罪新設法案)に関する会長声明

同法案は、損壊対象の国旗を官公署に掲げられたものに限定していないため、国旗を商業広告やスポーツ応援に利用する行為、あるいは政府に抗議する表現方法として国旗を用いる行為なども処罰の対象に含まれかねず、表現の自由を侵害するおそれがある。

 今回、法案が提出され、その内容が2012年のときと同じように損壊の対象となる国旗を官公署に掲げられたものに限定しない内容だった場合には、この声明の引用箇所にある懸念が繰り返されることになる。

 この損壊罪の対象となる国旗を、官公署に掲揚されたものや式典用に掲揚されたものに限るとするならば、憲法違反となる可能性は低くなるが、新たな規定を設ける必要もない。そうした積極的な損壊行為は、現行のままで器物毀損にも業務妨害(公務執行妨害)にも問えるからである。

 しかしこうした法案が提出されるとしたらその焦点は、そうした公務上の国旗を守ることではなく、一般人が国旗(日の丸)の表象を自分の表現に使うときに、その使い方(そこに込められるメッセージ)を統制する、ということだろう。この場合には、表現者が自分で作った布や紙の国旗や、作品中に描き込んだ国旗の表象が法適用の対象となる可能性も出てくる。

 これには「侮辱する目的」でなければこの罪には該当しない、批判的表現にはこの規定は適用されないので「表現の自由」には抵触しない。という反論があるかもしれない。しかし、「侮辱する目的」は、運用次第で外側から認定される可能性がある。警察による事情聴取の段階で「このような表現が侮辱的だということは当然に認識できたはずだ、だから侮辱の目的があったと認められる」といった論法で問い詰められた場合、この「目的」の絞りはたいした歯止めにならない。

 たとえば香港では、民主的な自己統治の回復を求める表現活動者に、国旗侮辱罪で逮捕・投獄された人が複数名出ている。詳しい現地事情や政治事情には立ち入らずとも、《国旗を用いた政府批判表現が刑事罰の対象となる》というのはこういうことだ、という実際例として参考にすることはできる。最初の記事は74歳のベテラン民主活動家の事例、2番目の記事は19歳の学生の事例である。

Veteran Hong Kong pro-democracy activist Koo Sze-yiu jailed for 4 months for desecrating Chinese national flag

Hong Kong student activist Tony Chung found guilty of desecrating flag, taking part in unlawful protest

 日本では背景状況が異なるし、このような運用がされるとは思えないので、このような外国の例を連想するのは杞憂である、という反論があるかもしれない。しかしある行為を刑法に「犯罪」として規定するということは、こういうことを連想させるものであり、表現者にとっての萎縮効果は強力なものとなる。

 刑法は全般に、運用者(警察)の人的な良識に頼るのではなく、誰が運用・解釈しても同じ結果となるように法文を明確化し(罪刑法定主義、明確性の原則)、不要なものを刑罰の対象としないことが求められる。とくに「表現の自由」にかかわる場合には「どうしても必要な場合に限り、必要最小限の手段で」という姿勢が求められる。表現活動を刑事罰で抑えることは、最後の手段なのである。この姿勢から言って、提案される見込みありと報じられている国旗損壊罪は、法文の表面をどう工夫しても、本質的に刑法・憲法の基本原則から大きく外れたものとなると考えられる。

刑法92条「外国国章損壊罪」との違い

 日本では他国の国旗を損壊した場合に罰則を科す刑法規定があるが、日本国旗についてはそうした規定はない。要請をした一人である高市早苗元総務大臣や、要請を受けた下村氏は、このことを問題視している。

 しかし、すでに多くの論者が指摘しているように、この理解は間違っている。刑法92条は、「外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗そのほかの国章を損壊し、除去し、または汚損した者は、2年以下の懲役または20万円以下の罰金に処する」と規定している(この罪は外国政府の請求がなければ公訴できない)。この条文は、「日本と外国の間の円滑な国交」を守るために定められているもので、この筋からは、日本国旗の損壊について定めがないことは当たり前ということになる。

 したがって、92条とのバランス上、日本国の国旗への毀損にも処罰を設けるべきだという議論は成り立たない。そうすると、92条を離れた独立の立法目的として、国の名誉の保護や、国民の愛国心の涵養といったものが出てくることになる。今回の場合には、推進者の一人である高市氏が「名誉」に言及したと伝えられている。また、氏のホームページでは、「国旗が象徴する国家の存立基盤・国家作用」、「国旗に対して多くの国民が抱く尊重の念」が、侵害から守るべきものとしてあげられている。

「名誉」については、以下の論説が、憲法前文にある「名誉」概念に照らした道理を、的確に説いている。

国旗損壊罪を新設?「日本と外国の国旗で同じ罰」の問題とは…。憲法学者に聞いた

 また、国旗が国家を象徴しているにしても、その国旗を毀損したからといって、国家が実力をもって転覆されるわけではない。そうした事柄は内乱罪(刑法77条)の規定があり、首謀者は死刑または無期懲役という重い罪が科されることとなっている。国旗という象徴の損壊を、それによって象徴されるものの損壊と同視するべきではない。

 むしろ、国家・政府に疑問や怒りなどを伝えたい人がいるとき、国家の作用やその下に生活する現実の国民に有形の実害を与えることなく、《表現》によってそれを表す行為は、まさに「表現の自由」として保護される理由がある。こうした表現が許容されることによって、現実の暴力に至らずに、克服すべき事柄への気づきがもたらされることもある。

 自国の国旗を侮辱する表現を禁止・処罰することについては、アメリカ連邦最高裁が違憲判決を出している(Texas v. Johnson、1989)。この判決でアメリカ連邦最高裁は、社会がある観念を不快または好ましくないと考えているとの理由で、その観念の表現を禁止することはできない、とした。また、その表現を見た人が必ず危険な行動を起こすという予測に基づいてその表現を規制することもできない、という考え方をとっている。

《何かを表現すること》は、一般社会からの不評や反感を買うリスクを常に抱えている。その反感は、「表現の自由」の一環として表明されるべきもので、その表現を禁止したり、表出の場を塞いだりする理由にはならない。国が一方の人々の反感に肩入れして、一方の表現を塞ぐ法律を採用することは、憲法に照らして認められないことが確認されたと言っていいと思う。その意味で、上記のアメリカの判決は、国旗をモチーフに使った表現に限らず、《物議をかもす可能性のある表現》全般を考えるときに参考になる判決でもある。

憲法と「愛」

 さて、今回の国旗損壊罪に関する法案では表立って話題になっていないが、国旗・国歌に関しては「愛国心」の強制が真の動機ではないか、ということが常に論じられる。教育現場の式典での国旗掲揚と国歌斉唱の強制を見ても、積極的な妨害行為とはいえない消極的な不同調までが、(戒告とはいえ)懲戒の対象となっている。たしかに単なる「尊重」を超えて、是が非でも「愛国心」を形成しようという意図があるのかと思わせるものがある。

 こうした価値観の刷り込みは日本国憲法に反する疑いが強いが、こう言ったからといって、日本国憲法は愛や公共心を否定しているわけではない。日本国憲法は、「愛」を定義も強制もしていないが、そのもとに暮らす人々が愛情に基づいた人間関係を形成したり、国や郷土やそのシンボルに自発的な愛着を感じたりすることについては、その「自由」を妨害するべきでない、という基本姿勢を貫いている。これが憲法13条「幸福追求権」や憲法19条「思想良心の自由」、その他多くの規定の共通原理になっているのである。それを表明することは憲法21条によって、各人の自由である。

 たとえば、国や郷土への愛があるからこそ、手厳しい諫言を辞さない人々もいるだろう。シェイクスピアの「リア王」に登場する末娘コーディリアは、そのような「愛」を表明しつつ、諫言の相手方であった国王を最後まで救おうとした人物である。国の統治を預かる為政者がもっとも大切にすべきなのは誰かということを、この悲劇は教えている。

 最良の刑事政策は社会政策である、という法格言がある。社会政策が不十分な状態で、国政への不満を刑事罰で抑えようとすることは、「リア王」の轍を踏むことになるということを、提案者の方々に知ってもらう必要がある。

 法で強制しようのないものを法で強制すれば人心は離れ、法への尊敬も失われていく。提案されている国旗損壊罪は、憲法に照らして許容できない法案となる可能性が高いが、それに加えて、さまざまな現実の緊要課題を抱えた状況下で国会の限られた時間と労力をこのようなことに割くとなれば、提案者も国会も、国民の信頼を損ねるのではないか。国の「名誉」、つまり国が国民から尊重や社会的信頼を得る道は、国民の信託に応える仕事をすることだろう。

武蔵野美術大学教授(憲法、芸術関連法)、日本ペンクラブ会員。

東京生まれ。専門は憲法。博士(法学・論文・早稲田大学)。2000年より武蔵野美術大学で 表現者のための法学および憲法を担当。「表現の自由」を中心とした法ルール、 文化芸術に関連する法律分野、人格権、文化的衝突が民主過程や人権保障に影響を及ぼす「文化戦争」問題を研究対象にしている。著書に『文化戦争と憲法理論』(博士号取得論文・2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・2014年)、『表現者のための憲法入門』(2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(2018年)。

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