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クリス・スペディングが語る『無言歌』、ジャック・ブルース、セックス・ピストルズ

山崎智之音楽ライター
Chris Spedding / courtesy of Cherry Red

1960年代から現代まで、クリス・スペディングはそのギターで世界の音楽ファンの心を揺さぶってきた。ロックからジャズ、ロカビリーなどを弾きこなしてきた彼は1975年に「モーター・バイクでぶっ飛ばせ Motor Bikin’」(1975)をヒットさせ、その一方で多数のアーティストとのセッション・ワークもこなす。本国イギリスとアメリカを股にかけて活動、そんな多彩なキャリアを経ながらも、彼のギターのスタイルには圧倒的な個性が貫かれている。

クリスが1971年に発表した初のリーダー・アルバム『無言歌 Songs Without Words』がリマスタード・エディションとして再発。また、1960年代末から1970年代初めにかけてのジャック・ブルースとのライヴ共演を収めた『Smiles & Grins Broadcast Sessions 1970-2001』がリリースされた。

それにタイミングを合わせて、そんな時期のクリスについて、本人から語ってもらった。

<『無言歌』/私の“ジャズ期”はきわめて短いものだった>

Chris Spedding『Songs Without Words』ジャケット(マーキー/ベル・アンティーク 現在発売中 )
Chris Spedding『Songs Without Words』ジャケット(マーキー/ベル・アンティーク 現在発売中 )

●『無言歌』は1969年の終わりにレコーディングして、日本のみで1971年4月に発売になったアルバムですが、どんな背景があったのですか?

私の“ジャズ期”はきわめて短いものだったんだ。その前にフランク・リコッティやニュークリアスとやったこともあって、レコード会社は私をジャズ/フュージョン市場で売り出そうとしていた。でも当時、自分の志していた音楽性は『クリス・スペディング Backwood Progression』(1970)や『クリス・スペディングの世界 The Only Lick I Know』(1972)のようなものだった。それで「それは私のやりたい音楽ではない。一応レコーディングしてみるけど、私が気に入らなかったらリリースは中止して欲しい」と言ったんだ。“EMI”のスタッフは同意してくれて、アルバムは出さないことになった。でも、どういう流れでか後になってテープが日本のレコード会社に送られて、事情を知らない彼らがリリースしてしまったんだ。当時は正直ガッカリしたね。でも歯ミガキ粉がチューブから出たら戻らないのと同じで、一度世に出てしまった音楽をなかったことには出来ない。半世紀経ってもインタビューで「あの路線を続けなかったのは何故?」と訊かれたりもするよ。あのアルバムには良い部分もあったと思う。でも、あれは私の音楽ではなかったんだ。1960年代にジャズをよく聴いてきたし、フランク・リコッティ、マイク・ギブス、ジャック・ブルースなど、ジャズをプレイするミュージシャン達と交流があった。そこそこプレイすることが出来たけど、自分が進もうとする方向ではなかった。

●あなたがジャズ・プレイヤーとしての才覚があることは、ニュークリアスの『エラスティック・ロック』(1970)を聴けば明白だと思います。

当時「ロック・ギタリストが余暇でジャズをやっている」と思われていたけど、実際には収入の多くはジャズによるものだったんだ。もちろん好きなものもあって、『エラスティック・ロック』でのギターは今でも気に入っている。でも当時のジャズ路線のレコードはスポーツ競技のようなもので、弾くのは楽しいこともあったけど、あまり聴き直そうと思うものではないよ。

●1970年代に入ってからジャズ・ロックやフュージョンがひとつの潮流となりましたが、あなたはそれには興味がなかったのですか?

元々、時流に乗るのは得意じゃないんだ(苦笑)。私がジャズをやっていた頃にジェフ・ベックはロックをやっていて、私がロックをやるようになったら入れ替わりで『ブロウ・バイ・ブロウ』を出したりね。

●『無言歌』は2014年にあなたが自らリミックス、再編集したヴァージョンがリリースされましたが、今回再発されるのはその2014年ヴァージョンですか?

今回の再発にあたって新たな作業はしていないから、2014年ヴァージョンのマスターが使われていると思う。オリジナルの定位とバランスをいじって、退屈な部分をカットしたんだ。3分のインプロヴィゼーションを2分に編集した程度だけどね。もう何十年も前に出てしまったものを今更改変するべきではないんだ。オリジナルはフリーフォームの演奏をそのまま捉えたものだった。ほとんど編集はしていないよ。そういうものだと思っていたんだ。マイルス・デイヴィスもかなりアルバムを編集していたことを、後になって知った。

●キンバリー・J・ブライト著のあなたのバイオグラフィ本『Chris Spedding: Reluctant Guitar Hero』には、あなたがジャズに興味を失ったのは1967年、ジョン・コルトレーンが亡くなったときだったと記してありますが...。

うん、コルトレーンのファンだったんだ。マイルス・デイヴィスの『いつか王子様が Some Day My Prince Will Come』(1961)でのプレイは最高だったよ。同じぐらい好きだったのがソニー・ロリンズだった。よくロンドンの“ロニー・スコッツ・クラブ”に見に行ったよ。元々はギタリストのジム・ホールのファンだった。それでアルバム『橋 The Bridge』(1962)を手に入れて、ソニー・ロリンズも大好きになった。1960年代の一時はスノッブなジャズ・リスナーで、チャーリー・クリスチャンやウェス・モンゴメリー、バーニー・ケッセルなどを聴き耽っていた。その後ザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズを聴くようになったんだ。『ラバー・ソウル』(1965)は素晴らしいと思った。ザ・ビートルズはポップ・グループとしてデビューしたけど徐々にシリアスな音楽をやるようになって、ジャズより面白いと感じたんだ。マイルスはそれまで音楽の最前線にいたけど、フュージョン的な実験を行うようになって、スライ・ストーンに遅れを取るようだった。それで急速に興味を失っていった。でも、その頃からジャズの人々からオファーが入り込むようになったんだ。私がジャズに理解のあるロック・ギタリストだということで、ニュークリアスのようなバンドはロックの要素を取り入れて、フュージョンあるいはジャズ・ロックをやろうとしたんだよ。そんなスタイルは自分にとってチャレンジで楽しかったし、カール・ジェンキンズの作曲スタイルから影響を受けたけど、自分がやりたかったのは『クリス・スペディング』みたいな音楽だった。ボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』やザ・ビートルズの『リボルバー』(共に1966)から触発されて、自分らしく表現したかったんだ。『無言歌』『クリス・スペディング』『クリス・スペディングの世界』をザ・ビートルズと同じ“アビー・ロード・スタジオ”でレコーディングすることが出来たのは幸運だったね。ジャック・ブルースの『ソングス・フォー・ア・テイラー』(1969)をきっかけにいろんなセッションをやるようになって、1975年に「モーター・バイクでぶっ飛ばせ」がポップ・ヒットしたことで、ジャズやフュージョンと関連づけられることはなくなったんだ。

●ちなみに『Reluctant Guitar Hero』についてどう思いますか?

すごい労力をかけて私についての本を書いてくれたことに感謝しているし、光栄に思うよ。私が自分について知っていること以上に書かれていて、たまに昔のことを思い出すのにページをめくってみるぐらいだ。ただ分厚くて、詳しすぎるぐらいだから長年私の音楽を聴いてくれるファンには楽しめるけど、「誰だ?このスペディングって奴は」という人には呑み込みづらいかも知れない。      

●ニュークリアスの『エラスティック・ロック』はどの程度マイルス・デイヴィスの影響下にあったでしょうか?

当時、ロンドンのジャズ・ミュージシャンは誰もがマイルスから影響を受けていたよ。『イン・ア・サイレント・ウェイ』(1969)とかね。メイン・ソングライターのカール・ジェンキンズもそうだったし、ドラマーのジョン・マーシャルはトニー・ウィリアムスに傾倒していた。

●その頃マイルスのグループでギターを弾いていたジョン・マクラフリンはジャック・ブルースの『シングス・ウィ・ライク』(1970)でもプレイしています。あなたはその後ジャックと組んでいますが、ジョンと交流はありましたか?

数回会ったことがあるけど、友達というほどではなかった。私がジャックと一緒にやるようになってすぐ、彼はニューヨークに拠点を移してしまったしね。『シングス・ウィ・ライク』はジャックと私がやる前に行ったジャムをアルバムにしたんだ。ジョン・ハイズマン、ディック・ヘクストール=スミスと、ブリティッシュ・ジャズ・ロックの実力者たちが集まったアルバムで、私も好きだよ。

●『無言歌』にはインストゥルメンタル曲「アイ・ソート・アイ・ハード・ロバート・ジョンソン・セイ」が収録されていますが、あまりブルース色は感じません。何故このタイトルにしたのですか?

スライドを弾いているからだよ。それだけだ。何か気の利いたタイトルを付けたかったけど、もっとストレートなブルース曲にそう名付けるべきだったかもね。

●あまりに1960年代後半のブリティッシュ・ブルース・ブームが大嫌いで、一時期ギターを止めてベースに転向したというのは本当ですか?

うん、その通りだ。あの時期はギターを弾くならブルースでなくてはならないトレンドがあった。そんな時流に乗りたくなかったんだ。それでフェンダーのプレシジョン・ベースを手に入れて、ステージでも弾いていた。ジョン・メイオールやフリートウッド・マックなどにはあまり興味がなかったんだ。バタード・オーナメンツに加入した頃(1968年)は何にでも反抗したい年頃だったし、バンドのメンバー達はみんな元ジャズ・ミュージシャンで、ブルースのことを下に見ていた。当時のブームに属することなく、何か違ったことをやりたかったんだよ。

<ジャック・ブルースはブルースを愛するオペラ歌手のように歌うんだ>

Jack Bruce『Smiles & Grins: Broadcast Sessions 1970 - 2001』ジャケット(Cherry Red 現在発売中)
Jack Bruce『Smiles & Grins: Broadcast Sessions 1970 - 2001』ジャケット(Cherry Red 現在発売中)

●ジャック・ブルースとはどのようにして知り合ったのですか?

ピート・ブラウンがヴォーカルを務めるバタード・オーナメンツに私が加入したんだ。ピートはクリームの歌詞を書いていたし、ジャックの友人だったから、私も親しくなった。

●バタード・オーナメンツはヴォーカルの技量が低いという理由でピート・ブラウンを解雇しましたが、そのことでジャックとの関係は気まずくなりませんでしたか?

ピートを解雇することはバンドのミーティングで全員が合意したんだ。決して私1人の意志ではなかった。もちろんピートは落胆していたけど、仕方なかったんだ。その頃、私は既にジャックと知り合っていたし、このことについては話題に出なかった。バンド内のことだし、あえて関わることはなかったんだ。ピートがバタード・オーナメンツを去ってから結成したピブロクト!も良いバンドで、ジム・マレンという優れたギタリストがいた。それからしばらく彼と会う機会はなかったけど、私がアメリカからイギリスに戻ってきた20年ぐらい前に3、4回ぐらい顔を合わせて、話すことが出来た。ジャックの葬式でも会ったよ。まあ、私のことはお気に入りではないかも知れないし、晩年の彼のプロジェクトに招かれたりはしなかったけど、普通に会話することが出来た。彼がいなくなってしまって寂しいね。

●創設メンバーでフロントマンのピートを失ったことは、バンドにどのような影響を与えましたか?

バタード・オーナメンツは反逆的なバンドで、誰も先のことを考えていなかった。ピートをクビにしたとき、残ったメンバーは歌ったことがなかったんだ。既にアルバム『マントル・ピース』(1969)のバッキング・トラックは完成していたけど、シンガーがいなかった。時間がなくて、それまで歌ったことがない私がほとんどの曲でヴォーカルを録ったんだよ。“アビー・ロード”でヴォーカル・デビュー...というと華々しいキャリアのように思えるけど、キーも間違っているし、正直ベストといえるものではなかった。それでも自分のシンガー・ソングライターとしてのキャリアを始めることが出来たのはラッキーだと思うべきだろうね。

●ジャックとは『ソングス・フォー・ア・テイラー』(1969)『ハーモニー・ロウ』(1971)で共演していますが、彼との共演はどのようなものでしたか?

ジャックは素晴らしいミュージシャンでシンガーだった。ブルースを愛するオペラ歌手のように歌うんだ。彼はスコットランドの音楽大学を出ていて、オルガンやチェロも弾くことが出来た。いつもジョークを飛ばして、面白い人だったよ。多くの人が言うように、気分屋なところがあるのも事実だったけどね。才能と個性に溢れた人だった。

●彼との関係はどのような形で終わったのですか?

私がジャックのバンドを脱退したわけではなく、ドラマーのジョン・マーシャルと同時に解雇されたんだ。既にツアー日程が決まっていて、リハーサルに入ろうという時期に、ジャックが「ツアーはやらない。別のことをやる」と言い出した。その理由は言わなかったけど、実はマウンテンのレスリー・ウェストとコーキー・レイングとウェスト、ブルース&レイングを結成することになっていたんだ。私たちは正式にバンドを結成していたわけではなく、フリーランスとして雇われていたわけだし、特に文句はなかったよ。その後、私がマイク・ギブスと活動しているとき、ジャックも来ることがあった。「やあ、元気?」って感じで、特にレスリーの話題は出なかったし、関係は変わらなかった。ジャックとは日本でも会ったこともあるんだ。ちょうどツアーのスケジュールが合ってね。同じホテルに泊まっていて、彼はサイモン・フィリップスと来ていた(1992年3月、ロバート・ゴードン&クリス・スペディング・バンドでの来日)。

●ジャックはウェスト、ブルース&レイングの後に元ザ・ローリング・ストーンズのミック・テイラーと合体しています。あなたは1969年7月、ストーンズのテイラー加入初ライヴであるロンドン“ハイド・パーク”のフリー・コンサートのサポートとしてバタード・オーナメンツで出演していますが、彼との交流はありましたか?

当時はなかったけどしばらく後になってから、デヴィッド・ボウイの主演映画『地球に落ちて来た男』(1976)の音楽で一緒になったことがある。それからディック・リヴァースというフランス人アーティストのテレビ出演ライヴで一緒にバックを務めた(1997年2月)。ミックはブルースを基盤にしながら個性豊かなギタリストで、ミュージシャンとしても人間としても好きだよ。

●バタード・オーナメンツがストーンズのオープニング・アクトを務めることになったのは、どんな事情があったのですか?

当時、私たちは“ブラックヒル・エンタープライゼズ”とマネージメント契約を交わしていて、彼らがイベントのオーガナイザーだったからだった。ビジネス的な判断だよ。

●ハイド・パーク・コンサートの数日前に馬から落ちたのと、花粉症だったそうですね。

うん、いろいろ大変だったんだよ(苦笑)。落馬して左手首を骨折して、石膏で固めていたんだ。ただ、悪いことばかりではなく、フィンガリングをうまく出来なかったからスライド・プレイを練習して、上達したことがあった。...ハイド・パークのコンサートで思い出に残っているのは、あまりに大観衆が集まって、バスだとファンに取り囲まれてしまうから、野戦病院の救急車に乗って会場入りしようと提案したことだった。暑い日だったし花粉症が酷くて、自分の出番以外は救急車でゆっくりしようと考えていた。でもそのアイディアはストーンズに使われてしまって、私たちは専用バスで会場入りすることになったんだ。

ジャックの息子マルコム・ブルースと話しましたが、2014年にあなたのジャパン・ツアーにベーシストとして同行した思い出を楽しそうに語ってくれました。

マルコムは才能に溢れたミュージシャンで、ビューティフルな人間だよ。私にとっても彼と共演したのは良い思い出だ。

<セックス・ピストルズ『勝手にしやがれ!! 』でギターを弾いたのは私ではない>

Chris Spedding 2019
Chris Spedding 2019写真:REX/アフロ

●あなたと初めて話すインタビュアーは必ずセックス・ピストルズの『SPUNK』デモをプロデュースしたことについて訊いてくると思いますが、もう飽き飽きしていますか?

そうでもないよ。「こんな話を聞きました」と、当事者の私ですら知らない話が次々と出てくるからね(笑)。その中にはデタラメも多くて、グレン・マトロックの伝記にはアルバム『勝手にしやがれ!! Never Mind The Bollocks』(1977)でベースを弾いたのがミッキー・モストだと書いてあった。私が彼に完成品を聴かせるまでは、セックス・ピストルズの名前すら知らなかったのにだよ。もうひとつ、あのアルバムでギターを弾いたのが私だというウワサが根強く残っているんだ。何度も訊かれて、そのたびに否定してきたのにね。しかもスティーヴ・ジョーンズまでが面白がって「そうだよ。クリス・スペディングがすべてのギターを弾いたんだ!」なんて言うものだから、いつになっても同じ質問をされるんだ。

●あなたがデモを、クリス・トーマスが『勝手にしやがれ!!』をプロデュースしたのですよね。

そう、その通り。当時私はよくクリスと仕事をしていたんだ。ジョン・ケイルやブライアン・フェリーもそうだし、私の『必殺ギター!Hurt』(1977)もプロデュースしている。いずれも『勝手にしやがれ!!』と同じような時期だった。彼が求めるギター・サウンドには共通するものがあって、それで私が弾いたという誤解が生まれたのかも知れない。当時ピストルズのマネージャーのマルコム・マクラレンに電話して、「ギターを弾いたのは私でなくスティーヴだ」という声明を出そうか?と提案したんだ。でもマルコムは興味がなさそうだったんで、関わらないことにした。もう私は30代で、“怒れる若きミュージシャン”ではなかったからね。彼らには彼らのやり方があるし、口を出さないことにしたんだ。結果として、それで良かったと思っているよ。

●ただ、それでセックス・ピストルズと縁が切れたわけではなく、1978年にはザ・グリーディ・バスターズとしてスティーヴ・ジョーンズ、ポール・クックとライヴを行っています。このプロジェクトにはシン・リジィのフィル・ライノットやブライアン・ダウニー、ゲイリー・ムーア、スコット・ゴーハムなども関わっていましたが、どのような経緯で実現したのですか?

ただ電話があって「やる?」と言われて「やる」って。それほど深く関わったわけではないんだ。ステージに上がって、ヒット曲の「モーター・バイクでぶっ飛ばせ」をプレイした。リハーサルもなく、軽いサウンドチェックをしただけだった。その日のフォト・セッションに参加したせいで今でも話題に出るけど、でなかったら誰も覚えていないよ。バックステージでビールを飲んだのは覚えているよ。その時期のセッション・プロジェクトではテレビにも出演したこともあった。クリスマスでブライアン・ロバートソンがギター、コージー・パウエルがドラムス、ジョン・マイルズがシンガー、アラン・プライスがキーボードという顔ぶれで「ジョニー・B・グッド」をやったよ。私はベースを弾いたんだ(英BBC『Swap Shop』/1978年)。

●あなたが初めてU2のボノと会ったとき、開口一番「フィル・ライノットはどんな人でしたか?」と訊かれたというのは本当ですか?

本当だよ(笑)。同じアイルランドのロック・ヒーローとして、憧れていたんだろうね。ただそれから数年でU2は爆発的にブレイクして、彼ら自身がスターになったんだ。

●当時シン・リジィのギタリストだったゲイリー・ムーアはロッド・アージェント、ゲイリー・ボイル、アンドリュー・ロイド・ウェバーの作品に参加するなどセッション・ミュージシャンとしても活躍していましたが、あなたと現場で出くわすことはありましたか?

ゲイリーとはリハーサル・スペースで何回か会って「やあ」と言う程度の仲だったけど、彼のプレイは感情が込められていて好きだった。それにジャック・ブルースのように共通の知人のミュージシャンもいた。彼とはいろいろ話してみたかったな。

●その後、セックス・ピストルズのメンバー達との交流はありましたか?

ピストルズの連中とは最近でも顔を会わすことがあるよ。ロサンゼルスでスティーヴのラジオ・ショーに出演したこともあるし、ブライアン・フェリーとヨーロッパのフェスティバルに出たとき、パブリック・イメージ・リミテッドも出演していると聞いてバックステージでジョン・ライドンに会いに行った。彼の奥さんのノラもいたんだ。彼女がジョンと結婚する前に私と付き合っていたけど、病気のせいもあって(アルツハイマー病)私が誰だか判らなかったみたいだった。

<音楽業界はすっかり様変わりしてしまった>

●最近どんな音楽活動をしていますか?

今年(2024年)スウェーデンで自分のライヴをやったのと、シャーロット・グラッソン、ダンカン・マッケンジーと一緒にクラブ・ショーをやったよ。ダンカンはブライトン近辺で活動しているソングライターだ。シャーロットはマルチ・インストゥルメンタリストでフィドル、フルート、バリトン・サックス、テナー・サックスなどをプレイして、曲も書いている。広く分類すればジャズなのかな。それと3月にドラマーのアントン・フィグ、ベーシストのキース・レンティンとアメリカをツアーする。2人とも古い仲で、優れたミュージシャンだ。一緒にやっていて楽しいよ。それに6月には80歳記念ライヴをやるつもりだ。あとブライアン・フェリーがソロ・ツアーをやるなら声をかけてくると思うけど、ロキシー・ミュージックとしてツアーをやった以外、ソロとしてやる予定はないみたいだ。だから自分の活動に専念しているよ。

●新しいスタジオ・アルバムを作る予定はありますか?

今のところ予定はないんだ。音楽業界はすっかり様変わりして、アルバムを作ってもスタジオ費用を回収出来ないんだよ。スティーヴィ・ニックスも同じ理由で、もうアルバムを出さないと言っていた。それに私は〆切がないと仕事をしないタイプなんだよ。レコード会社から声がかかって「2ヶ月で10曲を書いて欲しい」と言われて前金をいくらかもらわないと、スタジオに入らない。モノグサなんだ。今のところ最新アルバムは『Joyland』(2015)かな。ゲストにジョニー・マーを招いたりして、楽しい経験だったよ。

Special thanks to chrisspedding.com

【公式サイト】
http://www.chrisspedding.com/

Chris Spedding Trio - Peppermint Lounge 1981 DVD
http://www.chrisspedding.com/pep/order-jp.html

クリス・スペディング
無言歌:リマスタード・CDエディション
マーキー/ベル・アンティーク
https://marquee.co.jp/belle_antique/mar-244022/

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,200以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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