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「電王手くん、ハンコを押す仕事も始めたの?」という記事を見て将棋電王戦で活躍した電王手くんを振り返る

松本博文将棋ライター
2014年電王戦で「電王手くん」と対峙する豊島将之七段(記事中の写真撮影:筆者)

 ニュースを見ていると、将棋ファンにとってはどこか見覚えのある写真が目に入りました。

「あれ、電王手くん? 電王手くんじゃないの? いやそうだ、電王手くんだよ。えっえっ、いまハンコを押してるの?」

 筆者はそう思いました。2014年、棋士とコンピュータ将棋プログラムとの公開対局「電王戦」で登場した、将棋を指すロボットアーム「電王手くん」にそっくりです。それもそのはず、開発したのは同じ会社のデンソーさんでした。

 厳密にはもちろん、電王手くんそのものではなく、似た仲間なのでしょう。しかしやはり、電王手くんのことを思い出さずにはいられません。

 電王手くんが初めて登場したのは、2014年電王戦第1局、菅井竜也五段(現七段)-習甦戦でした。

2014年電王戦第1局、電王手くんと向かい合うのは菅井竜也五段(現七段)
2014年電王戦第1局、電王手くんと向かい合うのは菅井竜也五段(現七段)

コンピュータソフトの指し手を再現 DENSOロボットアーム 電王手くん

 以下、電王手くんが登場した時のことについて、拙著『ルポ電王戦』(2014年刊)からその概要を転載します。

 第3回電王戦の目玉のひとつは、ソフト側の手をロボットが指すようになったことである。ロボットの名前を「電王手(でんおうて)くん」という。将棋界初の試みである。

 これまで人間とソフトが対戦する場合、ソフトの指し手を盤上に再現するのは、人間であった。その役割は開発者自身が担うことが多かったが、渡辺-Bonanza戦以後は、主にプロ側の人間が務めてきた。第1回電王戦では対局者米長の弟子である中村太地五段。第2回電王戦では三浦孝介(当時奨励会初段)。そして第3回電王戦では、電王手くんの登場となったわけである。

 人間が思い描く将棋ロボットのイメージというのは、人間型のロボットであることが多い。丸い目がついた顔には表情がなく、金属製の腕の先には駒をつまむためのC字型の手がついている。そんな感じだ。

 しかし電王手くんは違っていた。まず人型のロボットではない。箱型の本体に1本の腕がついているという、機能的な設計である。全体の重さは300キロほどもあるが、多くの部分は台(畳)の下に隠れているため、見えている部分だけを見れば、とてもスマートな外観である。駒を動かす際には、駒を赤外線によって探知し、「シューッ」という小さな空着音とともに、吸い付けられて、移動先に動かされる。

 人間にとっては盤上に18枚置いてある歩はどれも同じに見える。しかし駒は職人の手作りであり、ロボットの視点では、すべて違ったものとして認識されるという。そこで、使われる駒のすべて(全40枚)をあらかじめ撮影して登録しておく。

 開発は自動車部品製造会社のデンソーを中心としたチーム。開発期間がほとんどなかったにも関わらず、驚くほどのクオリティで電王戦に提供された。

 棋士側の駒台は、普段対局で使っている、いつも通りのものである。対して電王手くん側の駒台は、特注の大きなものだ。そこにはあらかじめ駒が20枚並べられている。

 菅井が一礼をして、駒箱から駒袋を取り出し、ひもを解いて、中から駒を取り出す。いつもならば40枚(プラス予備の歩が数枚)だが、今日は菅井が並べる20枚しか入っていない。

 菅井が駒を並べ終えた後、電王手くんも並べ始める。駒台からまずは玉を取って、所定の位置の、ます目の真中に置く。その動作を目の当たりにして、解説の鈴木大介八段や中村太地六段からは「おお」と歓声が上がった。ニコニコ生中継で観戦していたユーザーからも「すごい」「かわいい」と感嘆のコメントが寄せられる。近くで写真を撮っていた私は声を上げることはできないが、あまりの技術の高さに、心底驚いていた。万が一電王手くんが故障して動かなくなった場合には、スタンバイしていた奨励会員が代わりに指すことになっていたが、5局を通じて、そうしたことはなかった。

 余裕を持って駒を並べ始めたため、両者、駒を並べ終わってからはしばらく時間があった。午前10時、対局開始。菅井はいつもの通り、深く一礼をした。少し遅れて電王手くんもアームを折り曲げるしぐさで、一礼を表す。対局場に訪れたときからずっと厳しかった菅井の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 菅井の初手の後、電王手くんはすぐに2手目を指した。報道陣に写真を撮られることを気遣ってくれる棋士ならば、一呼吸は置いてくれるところだ。(中略)

 長い時間が経った後、菅井は投了を告げた。菅井が一礼し、少し遅れて電王手くんも、対局開始時と同様、腕を折り曲げて、一礼を表した。

出典:松本博文『ルポ電王戦』(2014年刊)

 菅井五段(現七段)は若手の代表格の一人でした。後には王位のタイトルを獲得し、平成生まれとしては初のタイトルホルダーとなっています。しかしコンピュータ将棋は既に恐ろしく強くなっていました。菅井五段ほどの強い若手をもってしても、この一局は習甦の完勝に終わりました。

 この時の電王戦はコンピュータ将棋側から見て4勝1敗でした。棋士側で唯一の1勝を挙げたのはYSSと対戦した豊島将之七段(当時)。豊島七段にとっては、この時の電王戦は大きな転機でした。この時の準備を通してコンピュータ将棋に対する認識を新たにし、積極的に自身の研究に取り入れていくことになります。

 電王戦が終わった後に活躍した棋士が多いのですが、その代表は現在の豊島竜王・名人でしょう。

 電王手くんは、電王戦が開催されるたびにバージョンアップされていきました。

世界初”成駒”を実現! 機能美を追求したDENSOロボットアーム 電王手さん

新電王手さん

 2016年の電王戦は、棋士のトーナメント「叡王戦」を勝ち抜いた山崎隆之叡王(八段)と、「電王トーナメント」を制した当時の最強コンピュータ将棋ソフト「ponanza」(ポナンザ)との間で戦われました。

 山崎叡王は、比較的少ない左利きの棋士でした。開発者の澤田洋祐さんは、次のように振り返っています。

(前略)対局する山崎隆之叡王が左利きであることに、設営前日に初めて気づいた。実は電王手シリーズで左利きの棋士との対局は初のことで、完全に右利きの人用に安全領域を設定していたのだ。そこで急きょセンサーの設定を設営日に書きかえなければならず、設営時間も限られている中で非常に焦らされた。結果として特に大きなトラブルもなく対局を終えられてほっとした。

出典:人と戦うために生まれたロボット「電王手さん」は“人へのやさしさ”でできている(「MONOist」2016年5月13日記事)

 そして片腕だった電王手さんは、最後は双腕になっています。

2017年電王戦第1局、電王手一二さんと佐藤天彦叡王(名人)
2017年電王戦第1局、電王手一二さんと佐藤天彦叡王(名人)

これが最終形態だ! DENSOがたどりついた”双腕”ロボットアーム 電王手一二さん

 なるほど、片腕よりはそちらの方が駒を裏返す時など、便利でしょう。であれば、最初から双腕でもよかったと思われますが、登場の順序としては、片手で将棋を指す人間の形に近づけた方が、人間側の抵抗感も少なかったのかもしれません。

 電王手一二さんは2017年、佐藤天彦叡王(名人、現九段)と当時の最強コンピュータ将棋ソフト「ponanza」(ポナンザ)との対戦で「代指しアーム」として活躍しました。人間側の最強者である名人が2連敗で敗れて、電王戦は終わっています。

 電王戦の記憶の多くは、電王手くん(さん)とともにあります。そこでは現代の情報科学、人工知能の分野の象徴である最強コンピュータ将棋ソフトが、最先端の機械工学を駆使したロボットアームと見事なコラボを演じたように見えました。

 その電王手くんの仲間が、アナログの象徴ともいうべき、山ほど印鑑を押す仕事に携わるというのは・・・。もちろんそこにはロボットアームの汎用性を示すという意義があるのかもしれません。その仕事を替わってもらえるのであれば、大変助かるという人も現実に存在するのでしょう。需要に応じて開発された方にも敬意を覚えます。

 しかし、電王手くんの活躍を見てきた将棋ライターである筆者は、こうした機械が必要とされる状況については、個人的には正直なところ、「とほほ・・・」という感が、どうにもぬぐえません。

将棋ライター

フリーの将棋ライター、中継記者。1973年生まれ。東大将棋部出身で、在学中より将棋書籍の編集に従事。東大法学部卒業後、名人戦棋譜速報の立ち上げに尽力。「青葉」の名で中継記者を務め、日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)などのネット中継に携わる。著書に『ルポ 電王戦』(NHK出版新書)、『ドキュメント コンピュータ将棋』(角川新書)、『棋士とAIはどう戦ってきたか』(洋泉社新書)、『天才 藤井聡太』(文藝春秋)、『藤井聡太 天才はいかに生まれたか』(NHK出版新書)、『藤井聡太はAIに勝てるか?』(光文社新書)、『棋承転結』(朝日新聞出版)など。

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