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【戦国こぼれ話】明智光秀が周山城を築いた理由は、天下取りの野望があったという大ウソ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
本当に光秀には、天下取りの野望があったのだろうか。(提供:アフロ)

 京都府南丹市の「アスエルそのべ」では、明智光秀のパネル展を開催中。詳しくはこちら。光秀が周山城(京都市右京区)を築く際、南丹市などの寺を壊して建設用の資材にしたことも展示されている。

 ところで、一説によると、周山城を築いたのは、光秀に天下取りの野望があったという説がある。これは、事実なのだろうか。

■明智光秀の野望

 明智光秀が織田信長を討とうとした理由は、自らが天下人になる野望があったとの説がある。

 『惟任謀叛記』という二次史料には、「(光秀による信長への謀反は)急に思いついたものではなく、長年にわたる逆意であると考えられる」と記している。

 つまり、光秀は長年にわたって信長に何らかの逆心を持っており、とっさのことではなかったというのである。この説明は、以後に唱えられた数多くの黒幕説につながっていく。

 『豊鑑』という二次史料には、「(光秀は)なお飽き足らず日本を治めようとして、信長を討った」と記し、さらに続けて「光秀の欲が道を踏み外して、名を汚しあさましいことだ」と述べている。こちらは信長への恨みというよりも、天下取りの野望である。

■光秀が周山城を築いた逸話

 『老人雑話』という二次史料には、光秀が居城の亀山城に続く北愛宕山に城を築き、周山と号したと記す(周山城)。光秀は自身を周の武王になぞらえ、信長を殷紂に比した。

 これは、周武王が宿敵の殷紂を滅ぼし、天下を取った歴史にちなんだものである。そして、あるとき羽柴(豊臣)秀吉が光秀に対して、「おぬしは周山に夜に腐心して謀反を企てていると人々が言っているが」と尋ねると、光秀は一笑して否定したというのである。

 近世初期に成立した随筆の『老人雑話』(『改定史籍集覧』 第十冊)は、儒医・江村専斎の談話を門人の伊藤坦庵(宗恕)が筆録して編集したものである。

 専斎は永禄8年(1565)に誕生し、寛文4年(1664)に亡くなったというので、なんと100歳(数え年)の長寿を保った。

 内容は戦国時代から近世初頭にかけて、武将の逸事や軍事、文事、医事、能、茶、京都の地理などに関するもので、秀吉の記事は注目されるが、すべてが必ずしも事実とはみなし難いと評価されている。

■史料の性質を考える

 『惟任謀叛記』はほぼ同時代の史料であるし、『豊鑑』『老人雑話』は後世に成ったとはいえ、成立年が早く同時代を生きた人の話なので信憑性が高いと見る向きもある。

 しかし、この3つの史料のうち、『惟任謀叛記』は秀吉の顕彰という編纂の意図があるので、割り引いて考える必要がある。

 また、『豊鑑』と『老人雑話』の記述内容は根拠不詳であり、まったく取るに足りないと考える。『豊鑑』は、光秀の主君殺しは、近世初期に広まった儒教に反する行為という、教訓のようなものである。

■まとめ

 『老人雑話』は、単なるおもしろおかしい創作にすぎない。光秀が野望を抱いていたとするには、一次史料から蓋然性を導き出すのも困難である。

 光秀は本能寺の変後、たった11日で滅ぼされたので、野望を抱いたにしては、変後の対応があまりにお粗末である。あまりに展望がなかったといえよう。

 つまり、光秀が信長を討ち、天下取りの野望を抱いていたというのは、後世の人の単なる思い付き、あるいは妄想にすぎないのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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