【戦国こぼれ話】羽柴秀吉が織田信長の葬儀を執り行うことになった俗説を検証する
安倍晋三氏の国葬が論争となっているが、天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺の変で横死した直後、その葬儀をめぐって揉めたことがある。以下、その俗説をめぐって、検証することにしよう。
■二次史料に見る葬儀までの経緯
天正10年(1582)6月の本能寺の変の直後、なぜ織田信長の葬儀が速やかに行われなかったのか。この間の事情を示す二次史料を確認しておこう。
『惟任謀叛記』には、まず羽柴秀吉が信長の推挙により栄達を遂げたこと、また信長の四男・次(秀勝)を養子として与えられ、いわば秀吉が織田家と同族であるかのように記す。
そこで、秀吉は「葬儀を行わねば」と考えるが、織田家には歴々の重臣、また織田家の一族がいたので憚ったという。そのような事情で10月まで信長の葬儀は行われなかったが、秀吉が一大決心のもとで葬儀を実行したと書かれている。
『川角太閤記』には、柴田勝家の策略が描かれている。秀吉が姫路に帰城すると、勝家は各地の大名に触れ状を送り、「信長が亡くなってからちゃんと葬儀を行っていなので、三法師(織田信忠の子)が上洛し大徳寺(京都市北区)で焼香なさるのがもっともである」と呼び掛けた。
これに対して秀吉は、信長の葬儀に際して新しく寺を建て、信長の木像を作るべきだと主張した。この意見には、勝家も賛成した。
■秀吉の策略
この間、姫路に本拠を持つ秀吉は播磨国内で牢人を集め、軍備を整えていた。この間に完成したのが大徳寺の塔頭・総見院だった。総見院とは信長の法名である。
その後、秀吉は勝家をはじめ、大名衆は相当な軍勢を率いて上洛すると考え目付を派遣した。目付は勝家らの軍勢の数を確認し、秀吉に報告したが、思ったような大軍ではなかったので、秀吉は勝家から催促するまで上洛しないことにした。
その後、勝家ら大名衆から催促があったので、ようやく秀吉は上洛しようとした。
秀吉は姫路を発つ5日前に、配下の者を宿泊させるべく、京都中の宿に宿札(宿泊者の名を書いて掲げた札)を掲げさせた。
すると、その様子を見た大名衆は、あまりの数の多さに「秀吉はそんなにたくさん人を召し抱えているのか」と大いに驚いた。勝家ら大名衆は目付を播磨方面に下したが、宿札を掲げさせたのは秀吉の作戦だった。
ようやく秀吉は2万ばかりの軍勢を率いて、姫路を発った。結局、勝家の命令によって、三法師・織田信孝も含めてすべての大名は国元へ逃げ帰った。
その後、秀吉は洛中に入り、信長の法事を営んだというのである。つまり、勝家ら諸大名を策略で騙して帰還させ、信長の葬儀を行ったということになろう。
■まとめ
以上の記述を見ると、秀吉が率先して信長の葬儀を取り仕切り、三法師はもちろんのこと、織田信雄・信孝兄弟すら無視したかのように思える。
『川角太閤記』の記述は、完全な騙し討ちにより葬儀を挙行したことを示している。ただ、記述内容は劇的であり、荒唐無稽と言わざるを得ないのである。