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「どうする家康」徳川家康の異父弟・源三郎が武田氏の人質になった経緯

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、武田家の人質になっていた源三郎が登場した。今回は、源三郎は徳川家康とどのような関係にあったのか、考えてみることにしよう。

 源三郎こと久松勝俊が誕生したのは、天文21年(1552)のことである。父は俊勝、母は於大の方だったので、徳川家康から見ると異父弟にあたる。なお、勝俊は三男で、父の居城の阿古居城(愛知県知多郡阿久比町)で生まれた。

 以下、『寛政重修諸家譜』により、勝俊の生涯を追うことにしよう。永禄3年(1560)3月、家康は阿古居城を訪ね、初めて勝俊に合った。桶狭間の戦いの2ヵ月前のことである。

 永禄6年(1563)、家康の命により、勝俊は人質として今川氏真のもとに送られた。しかし、その前年に家康は織田信長と同盟を結び、今川氏との対決姿勢を明確にしたので、疑問がないわけでもない。その後の勝俊の動きは明らかではない。

 永禄11年(1568)12月、武田氏は同盟を破棄して、駿河に攻め込んだ。その際、今川配下の三浦与一郎なる者が氏真を裏切り、勝俊を連行して武田氏のもとに走った。

 武田信玄は大いに喜び、勝俊を本国の甲斐に送ると、厳重に身辺警護を行ったという。『武者物語』なる編纂物によると、今川家を裏切った家臣は三浦与次になっており、勝俊と「おふう」(酒井忠次の娘)を連れ出したと書かれている。

 武田家の人質となった勝俊の動静は、詳しくわかっていない。元亀元年(1570)11月、家康は謀を巡らし、勝俊を救出しようとした。勝俊は甲斐を脱出すると、なんとか本国の三河国にたどりついた。

 しかし、ちょうど甲斐は雪深い季節で、勝俊は大雪の中を駆け抜けたので、両足の指をすべて凍傷で失ってしまった。家康は勝俊の忠節に心を打たれ、「一文字」の刀と「当麻」の脇差を与えたのである。

 天正11年(1583)1月、家康は勝俊に久能城(静岡市駿河区)を与えた。勝俊が亡くなったのは、3年後の4月2日である。享年35。幼い頃の家康を彷彿とさせる生涯だった。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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