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織田信長が比叡山を焼き討ちした理由と過去にも比叡山に火を放った人物とは?

歴ブロ歴史の探求者

比叡山延暦寺は天台宗の総本山の寺院。武力を持たない僧侶たちが俗世を離れて厳しい修行しているイメージがありますが、平安から安土桃山時代頃までは僧兵を多く抱え、最澄の名のもとに朝廷や幕府に大きな影響力を持っていました。

延暦寺はその影響力から度重なる政治介入によって、白河法皇や平清盛・源頼朝などの時の権力者達は手を焼いていました。室町時代に入ると武家との対立が強くなり、3回の比叡山焼き討ち事件が起こります。

そこで今回は比叡山焼き討ちについて紹介します。

足利義教が比叡山を取り込む

比叡山延暦寺の最初の焼き討ちは、室町幕府6代将軍・足利義教の時代。

自身が延暦寺の元天台座主であったことから、弟を座主に任命して将軍の影響下に置こうと考えました。

しかし、比叡山側や諸大名の反対が多く計画は難航。そこで、義教は僧たちをおびき寄せて斬首するという強硬策に出ました。当然、延暦寺側は抗議の姿勢を見せて比叡山に立てこもります。

それでも義教の対応が軟化する事がなく、失望した僧たちは火を放ち焼身自殺を遂げてしまいます。一回目は焼き討ちと言うより自ら火を放ったようですが、初めて延暦寺が大規模に焼失した事件になります。

一時、義教は比叡山を制圧しましたが、将軍・義教が暗殺された事を機に再び武装するようになり、数千の僧兵を有する大規模な戦闘集団へと変貌していきます。

細川政元による比叡山焼き討ち

続いての焼き討ちは室町幕府の管領・細川政元によって行われました。

1493年に将軍擁立をめぐる権力争いで各大名家が二つに分裂していました。この権力争いに介入してきたのが比叡山延暦寺。このあたりから延暦寺は寺院の立場を見失い武装集団(戦国大名)化したと考えられています。

比叡山は京都のすぐ近くにあり数万の兵を収容できることから、元将軍・足利義稙は、比叡山に立て籠もり機会を伺う事にしました。敵対勢力側の細川政元は比叡山に匿われると不利になると考え、主要施設をすべて焼き払い延暦寺に大きな損害を与え、支配力強化に成功しています。

織田信長による比叡山焼き討ち

領地問題でかねてから折り合いが悪かった信長と比叡山。浅井・朝倉氏が姉川の戦いで追いつめられ比叡山に立て籠った事で、信長にとって比叡山は落とさなければいけない場所となってしまいました。

このころの延暦寺は、殺生を禁じるのが仏教の教えであるのに僧兵を従えるという矛盾を犯し、武家の権力争いに加担し、世間も延暦寺に冷たい視線を送るようになります。

信長による比叡山焼き討ち関係の史料によれば、当時の僧兵や僧侶たちは堕落しており、堂塔坊舎も信長が焼き討ちするまでもなく荒れ果てていたと記録されています。

そこで信長は、見せしめを兼ねて比叡山の焼き討ちを行うことにしました。

この信長の比叡山焼き討ちは、話が広まるにつれて尾ひれがつき、大げさな表現がされるようになり現代に至っています。つまり、信長による比叡山の焼き討ちは確かに存在するが、言うほど大規模なものではなかったと言われています。1981年に滋賀県教育委員会が調査をしたところ、大規模な火事があったとされていた堂塔坊舎には、焼き跡や人骨などの物的証拠が見当たりませんでした。

なぜ比叡山は焼き討ちにあったのか?

自らの焼き討ちも含め比叡山は武家との衝突で3回焼かれています。

その背景には何があるのでしょうか?

宗派内の権力争いから僧が武装化して僧兵が誕生しました。それが、時代が進むごとに力をつけ、自分たちの意に沿わない事が起こると武力を背景に権力者たちに自らの主張を通してきました。また、不入権も認められ財力、権威、武力を持った延暦寺は、独立国家的な状態が続きます。

そして、政治の介入を繰り返し権力者たちを困らせていましたが、抜本的な解決がされないまま放置されてきました。

そんなやりたい放題の比叡山にメスを入れようとしたのが将軍・足利義教だったのかもしれません。やり方は強引でしたが、目の上のタンコブである比叡山を何とかしたかったのは汲み取れます。

織田信長は比叡山には一定の配慮もしていたようで『戦に介入しないで、浅井・朝倉の味方をしないで』と言う旨の文章を比叡山に送って通告をしています。しかし、それを無視し続けた結果、信長による焼き討ちが行われることになります。

焼き討ちの結果、世間の織田信長に対する非難はさほど上がらず、朝廷からの抗議もなかったと言われています。比叡山は本来、京都の鬼門を封じる役目を持った寺院で、朝廷からの信頼も厚かったのですが、この頃には評価も失墜してたのだと思われます。

江戸時代の新井白石も『焼き討ちは残忍だが、比叡山の悪行を止めたという点では、信長の功績は大きい』と評価してます。

江戸幕府によって統制された比叡山

その後の比叡山は生きのびた延暦寺の僧たちが、豊臣秀吉や徳川家康に接近し武家との関係修復にあたりました。そして、徳川家光の代になってやっと根本中堂の再建事業が開始され1641年に完成しました。

現在の根本中堂は、この時に建築されたもので、1953年には国宝に指定されています。

江戸幕府により寺院を全て統制下に置いて管理したことで、延暦寺が独自の権力を保有し、僧兵を蓄える事は無くなりました。
こうして増長していった寺院勢力は武家の支配下に置かれ、本来のあるべき姿へと戻っていくことになるのです。

歴史の探求者

歴史好きが講じて歴史ブログを運営して約10年。暗記教科であまり好きでないと言う人も少なくないはずです。楽しく分かりやすく歴史を紹介していければと思います。歴史好きはもちろんあまり好きではない人も楽しめるような内容をお届けします。

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