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甲子園初出場! でも新潟産大付って聞いたことがない、という人のために。

楊順行スポーツライター
新潟産大付の勝利を祝うように、柏崎ではちょうどその日に恒例の花火大会が行われた(写真:イメージマート)

 なんでも、見ていた知人によると"吉野マジック"だったらしい。全国高校野球新潟大会決勝は、新潟産大付と帝京長岡の組み合わせとなった。僕自身は都市対抗野球取材のために東京ドームにいたから見られていないが、新潟産大付は2回、中村心虹、千野虹輝の連続タイムリーで2点を先制。5回には「(帝京長岡の)茨木(佑太)投手は、ランナーを置いたときのクイックが苦手なようで、足を使った野球を展開した」と吉野公浩監督がいうように、足を使った機動力野球で2点を追加、4対2で逃げ切り、春夏通じて初めての甲子園出場を決めた。

 新潟産業大学付属高校? 新潟県以外の高校野球ファンには、ちょっと耳慣れない校名だろう。

 取材に行ったのは、2019年の秋。18年夏に県ベスト4に入り、19年春は8強、秋にはチーム初の決勝進出を果たし、北信越大会に初出場したあとだ。

人生最大のメッセージの数

 力をつけるきっかけは16年12月、吉野監督の就任だろう。手腕は確かだ。柏崎シニアの監督を13年務める間に、全国大会に12回出場。09年、夏の甲子園で準優勝した日本文理の主力・高橋隼之介や、社会人野球のSUBARUでプレーした金沢航己、長男で日本文理から早稲田大、トヨタ自動車に進んだ吉野和也、19年夏、甲子園に出場した日本文理の長坂陽らが教え子だ。市の公益財団法人勤務の吉野監督はいう。

「(新潟産大付の)監督に、というお誘いは何度かいただいていたんです。ただ勤務のことや、シニアの在団生のことを考えるとなかなか踏ん切れなかった。最後は、"柏崎から甲子園へ"という言葉にグッときました」

 そう、新潟産大付は県内では6位の人口約8万5000人を抱える柏崎市が所在地だ。県内人口ランク5位までの各市は、市内の学校がいずれも夏の甲子園に出場している。だが柏崎市からは、03年のセンバツに21世紀枠で出場した柏崎のみで、夏の出場はなかった。そして吉野監督自身、柏崎出身ながら高校は長野の信州工(現都市大塩尻)へ進んだから、なおさら、"柏崎から甲子園へ"の思いは強い。

 就任当初は戸惑った。シニア時代は野球の指導に専念できたが、高校の部活だから授業や学校行事が最優先。また生徒の募集など、いわばGM的な役割も担わなければいけない。それでも吉野監督を慕い、あるいは18年夏のベスト4を見て、入部者も急増。16年12月時点では1、2年生で15人だったのが、19年では50人ほどになっていた。

 19年秋の北信越は初戦で佐久長聖(長野)に敗れたが、そのときの1年生エース・西村駿杜が3年になった21年夏には、新潟大会の決勝まで進出。決勝の相手・日本文理は、西村の4歳上の兄・勇輝がかつて在籍していたが、兄とは別の道を選択した。だがその決勝は敗退。「柏崎から甲子園」の夢は持ち越しになっていた。それが今回、ようやく実現したわけだ。

 吉野監督は甲子園初出場を決めたあと、こう語ったという。

「うちは強豪がひしめく厳しいブロックに入ったため、選手には新潟県人らしく粘り強く戦おう、決勝の前は柏崎市から甲子園に行こうといいました。厳しい組み合わせでしたが、優勝したという実感はまだなく、夢の中にいるような、ふわふわとした感覚です」

 蛇足ながら、筆者も柏崎出身である。吉野監督にお祝いのメッセージを送ったら、「ありがとうございます。人生最大のLINE、メール数です」というメッセージが返ってきた。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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