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豊臣秀吉がもっとも恐れた4人の戦国武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 今や企業では熾烈な出世争いが激化し、たとえ相手が後輩であっても油断できない。天下人になった豊臣秀吉も同じで、恐れていた戦国武将がいた。そのうち4人を取り上げることにしよう。

◎織田信長

 織田信長は豊臣秀吉を引き立ててくれた恩人であり、主君でもあったが、秀吉がもっとも恐れていた人物に違いない。信長は軍功を挙げた家臣に対しては、手厚く恩賞を与えたが、そうでなければ家中から追放した。大坂本願寺を攻略できず、追放された佐久間信盛は好例であろう。

 天正5年(1577)10月以降、秀吉は信長から中国計略(毛利氏征伐)を命じられたが、大きなプレッシャーだったに違いない。翌年2月には三木城主の別所長治が離反したので、秀吉は窮地に陥った。しかし、秀吉は兵糧攻めで三木城を落とし、見事に信長の期待に応えたのである。

◎徳川家康

 天正10年(1582)6月、織田信長が本能寺で明智光秀に急襲され自害すると、豊臣秀吉は清須会議で織田政権を主導する立場となった。その2年後、織田信雄と徳川家康が結託し、秀吉に反旗を翻した(小牧・長久手の戦い)。最初に音を上げたのは信雄で、やがて家康も秀吉に屈服した。

 秀吉は家康を配下に収めるため、妹の朝日姫を妻として送り込み、さらに母の大政所を人質として家康のもとに向かわせた。秀吉が家康を恐れていた証だろう。こうした秀吉の策が功を奏し、ようやく家康は上洛して秀吉に面会し、名実ともに豊臣政権下に組み込まれたのである。

◎北条氏政・氏直父子

 北条氏政・氏直父子は関八州を支配する大名だったので、秀吉は恐れていただろう。秀吉は北条氏にたびたび上洛を促し、臣従を迫ったが、なかなかうまくいかなかった。天正17年(1589)、北条氏の配下の者が真田氏の名胡桃城を奪取し、これが秀吉の政策基調の惣無事に違反したので問題になった。

 秀吉は北条氏に釈明するよう求めたが、北条氏の対応は後手に回った。業を煮やした秀吉は、ついに北条氏討伐を決意し、諸国の大名に出陣を要請した。その結果、北条氏は滅亡に追い込まれたので、秀吉はきっと胸をなでおろしたに違いない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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