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福永祐一の騎乗馬をみて「おや?」と思った理由と、2度の海外遠征の関係とは?

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
28日のBSN賞でヴェルテックスに騎乗する福永祐一騎手(撮影;森内智也)

ヴェルテックスで思い出される海外遠征

 先週の8月26日に発表された週末の最終出馬登録をみて「おや?」と思った。

 目がいったのは福永祐一騎手の騎乗馬。28日の土曜日、新潟競馬場のメインレースであるBSN賞で、彼が乗る馬はその名をヴェルテックスといった。

 ヴェルテックス(VERTEX)とは“頂点”とか“頂上”という意味だが、同じラテン語を語源とした言葉に1文字違いのヴォルテックス(VORTEX)という言葉がある。こちらは“旋風”の意味がある。

 どちらも世界中でよく馬名としても使用される単語なのだが、今回なぜ目が留まったかというと……。話は20年以上も前に遡る。

 1999年、プリモディーネで桜花賞(GⅠ)を制した福永。これが彼の最初のGⅠ制覇だった。しかし、好事魔多し。その翌週、中京競馬場で落馬をすると、左腎臓摘出という大怪我を負ってしまう。当然、長期に及ぶ戦線離脱を要されたが、体を動かせるようになったリハビリ期間には後学のためにヨーロッパへ飛んだ。訪れた先は当時、凱旋門賞を目指すエルコンドルパサーが滞在していたフランスのシャンティイ。ここで同馬の渡邊隆オーナーと面識が出来ると、同オーナーが現地で購入した馬の騎乗を確約してもらえた。当時、福永は現地で次のように言っていた。

 「大怪我と分かった時点でゆっくり治していこうと思ったのですが、これがモチベーションになり『早く復帰しよう』という気持ちに変わりました。こういう事を目的にしたわけではなかったけど、結果的にフランスまで来て本当に良かったです」

99年、フランスで調教に騎乗する当時22歳の福永。
99年、フランスで調教に騎乗する当時22歳の福永。

 一旦、帰国し日本で復帰戦に騎乗すると、再び渡欧。渡邊が購入した馬はエルコンドルパサーが入厩していたT・クラウト厩舎へ転厩しており、当時22歳の福永を背にスタンドが改修される前のアスコット競馬場のレースに臨んだ。

 結果としては、鞍上が初めて経験する直線1400メートル戦で、19着に敗れるのだが、その時の馬の名がヴォルテックスだったのだ。

 今回、記事を記すにあたり、当時の記録をネットで洗い直した。ところがイギリスの統括団体にもフランスのそれにも該当する馬が見当たらない。VORTEXもVERTEXも数頭、出て来るのだが、99年にアスコットで走り福永が乗ったという記録に辿り着けないのだ。20年以上の時の流れが記憶の色を変えてしまったかと思ったが、開催記録から遡ると、やっと該当馬を見つけ出す事が出来た。すると、99年8月7日、福永を乗せて英国で走った馬は、なんと馬名がヴォルテックスではなかった。

 “BORTEX”

 その馬の名はそう記されていた。カタカナで記せばヴォルテックスではなく、ボルテックスとなるのだろう。20年以上前の話なので、当方の頭の中でスペルが勝手にBからVに変換されてしまったようだ。

99年、アスコット競馬場でボルテックスに騎乗。旧スタンドを前に撮影。
99年、アスコット競馬場でボルテックスに騎乗。旧スタンドを前に撮影。

13年後のアメリカ遠征

 さて、それから13年後の2012年の話だ。丁度、今くらいの時期、8月の終わりから9月の頭にかけて私はアメリカへ行った。訪れた先は当時、かの地の競馬に挑戦していた福永の下。まだ若手で初めてGⅠを勝った直後の99年と違い、この時の彼はすでに日本でリーディングジョッキーも獲得した後。フランス遠征はこちらから誘って受動的に進んだ話だったが、この時のアメリカは自ら能動的に動いて実現した遠征だった。

 「目的意識から何から何までヨーロッパへ行った時とは全く違う形の遠征です。ただ、どちらも刺激を受けたし、来て良かったという意味では同じです」

12年、アメリカ、デルマー競馬場にて。
12年、アメリカ、デルマー競馬場にて。

 そう語ったものの、日本とはまるで違う環境の中、数字的には苦戦をしていた。62回の騎乗で勝ったのは僅か1回のみ。その勝った馬でさえ、乗り替わりの憂き目にあっていた。それでも約2か月に及ぶ遠征を途中で切り上げる事なく全うしたのには理由があった。

 「僕には北橋修二先生と瀬戸口勉先生の2人の師匠がいます。2人が現役の間にリーディングを獲りたかったけど、それが出来ませんでした。だから今は少しでも良いジョッキーになって恩返しするしかないと考えています」

 そのためにも途中で投げ出すわけにはいかなかったのだ。

師匠の北橋修二元調教師(右)と。01年香港にて。
師匠の北橋修二元調教師(右)と。01年香港にて。

 帰国した福永は翌年も全国リーディングを獲得。18年には父・洋一元騎手も最後まで勝てなかった日本ダービー(GⅠ)をワグネリアンで制すと、20年はコントレイル、そして今年はシャフリヤールで同競走を優勝。実にこの4年間で3度も3歳の頂点にパートナーを導いてみせた。今ではすっかりトップジョッキーとなった彼の活躍に北橋元調教師や、すでに鬼籍に入った瀬戸口元調教師も喜んでいる事だろう。国内外で経験を積み、一流へと上り詰めた彼の更なる活躍を期待したい。1頭の騎乗馬の名前から、ふとそんな事を思ったのだった。

18年のワグネリアンを皮切りに近4年で3度ダービーを制した福永。
18年のワグネリアンを皮切りに近4年で3度ダービーを制した福永。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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