NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で注目!承久の乱発端の地へ。
承久の乱の舞台となった城南宮への最寄り駅は近鉄竹田駅だ。南改札を出て住宅街を抜けながら南西方面へ進む。上に高架が走る油小路通に出て、新城南宮道との交差点を渡ると右側に鳥羽離宮を造営した白河天皇の御陵が見えてくる。
平安後期に第72代目の天皇として即位した白河天皇は、院政を開始して摂関政治に終止符を打ち、自らのもとに権力を集中させた。皇位を継がせた堀河天皇崩御後は、その皇子で自らの孫である第74代鳥羽天皇、さらにその子の第75代崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁して43年間院政を行い、岡崎の地に法勝寺を造営、鳥羽の地に鳥羽離宮を造営した。
白河天皇が絶大な力を持った背景には院政政治を行ったことと、新興勢力である武士の積極的な登用にあったが、結果的にはこの武士によって、その後、朝廷勢力は追い込まれていくこととなる。
白河天皇陵から新城南宮道へ戻り、西へ進むと城南宮の森が見えてくる。城南宮は、創建年代は不詳ながら、この辺りにあった式内社「真幡寸神社」に、神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てた旗に神功皇后・八千戈神(大国主神)の神霊を添えて祀ったのが起こりとされ、平安京遷都時に国常立尊も合祀された。
都の裏鬼門にあたることから、都を守るとともに、方除けの神としても次第に信仰された。平安時代末には白河上皇が離宮を営み、ついで鳥羽天皇もさらに拡張したため、その鎮守社となって取り込まれ、代々の天皇、上皇がしばしば行幸した。
今回のテーマである「承久の乱」との関りは、後鳥羽上皇が北条義時を追討するため、城南宮で流鏑馬神事を開催することにかこつけて西国の武士を招集したことだ。この時、1700名の武士が参じたという。これらは対外的には流鏑馬神事に参加するためとされていたため、この動員が直ちに上皇側の挙兵とは気づかれなかったという。結果は上皇側の大敗に終わったが、幸い城南宮が戦火にまみえた記録はない。
応仁の乱で荒廃したが、江戸時代に入って復興をとげ、文久3年(1863)年には孝明天皇が攘夷祈願に行幸している。幕末の「鳥羽伏見の戦い」では鳥羽地区における激戦地となり、薩摩藩を中心とした新政府軍の陣所ともなった。
鳥羽離宮の庭園遺構は、二か所確認されている。ひとつは城南宮の神苑である楽水苑(別名:源氏物語花の庭)の中にある「春の山」だ。現在こちらはしだれ梅の名所として3月の上旬には可憐な花を咲かせる。
もうひとつが鳥羽離宮公園内にある「秋の山」だ。こちらには、幕末の「鳥羽伏見の戦い」の戦跡の石碑も建立されている。
一方、鳥羽離宮からの歴史を持つ寺院と言えば北向山不動院と安楽寿院が挙げられる。北向山不動院は鳥羽天皇の勅願によって興教大師によって創建された。鳥羽天皇の病気を治したとされる不動明王が、北側を向いて座っているので、北向山不動院という寺名となった。
北向山不動院の北東すぐには鳥羽天皇陵もあり、その東に位置するのが安楽寿院である。こちらも鳥羽天皇によって創建された。当初は鳥羽天皇の墓と美福門院の墓も境内に造られたが、美福門院は高野山に葬られたため、二人の子である近衛天皇の墓が造られた。現在は多宝塔となって宮内庁管轄で維持管理されている。
安楽寿院には鳥羽天皇の墓であった三重塔(現存しない)の本尊とされる阿弥陀如来坐像が伝わっている。仏師集団である円派の作品とされており、長円か賢円の作と推定されている。通常非公開だが、団体で事前予約をすれば拝観可能だ。
ぜひこのコースで承久の乱、鳥羽離宮に想いをはせながら巡ってほしい。