【オープン戦開催記念】これを機に知るのもいいんDeNAいの? 下関に残る“大洋ホエールズのDNA”
3月10日のあるプロ野球オープン戦開催に先立ち、開催都市をぷらりと歩いてみた。ちょっとしたタイトルをつけるなら「ホエールズのDNAを巡って」。
”マルハニチロ Presents 70th ANNIVERSARY GAME” 横浜DeNAベイスターズー広島東洋カープ@下関。
担当者によるとチケット販売は”秒殺”で完了したという。カープ人気がスゴいんだろうな、という話だけではない。
ベイスターズ球団発祥の地でもある、下関市側の思いもある。
今から1949年11月22日、下関市大字大和町4番地に「株式会社まるは球団」が誕生した。翌50年の3月10日に球団初試合。日本プロ野球がセ・パ両リーグに分かれた最初のシーズンだった。その後、2年間下関市をホームタウンとして戦った。
1953年以降は大阪(53年は下関でも18試合を開催)、川崎、横浜とホームタウンを移していくなか、旧下関市営球場が閉鎖される1975年までは年間最大で3試合の公式戦がこの地で開催された。また1989年に現行の下関球場(2017年4月よりオーヴィジョンスタジアム下関)が完成して以降、1990年代半ばまでは公式戦が年1試合のペースで開催されていた。今回は同市で12年ぶりのオープン戦開催となる。
まさに球団創立70周年の日のホームカミングゲームなのだ。
筆者自身、下関市から海を挟んだ北九州市小倉の出身という縁もあり、前田晋太郎下関市長とこの試合について幾度か話をする機会があった。「ベイスターズ戦の開催は、市長選時からの公約」という市長は横浜にも通い、試合誘致への熱意を伝えた。日程を探るうちに、ちょうどオープン戦時期の3月10日が「球団の初ゲーム開催日」という点を誘致委員会側と球団側双方が確認。球団もこの点を重要視し、この日の開催決定に至った。
下関の紹介をしてみたいと思う理由がもうひとつある。「本州の西端の地にあっても、確かにベイスターズを応援し続けている人たちがいる」という点を発信したい思いだ。
筆者自身の個人的経験でいうと、1988年と89年の2年間、山口市に父の仕事の都合で暮らしたことがある。転校した先のサッカー部(サッカー部でした。明らかにします)の同級生の15人のうち、1人だけ大洋ファンがいた。「もともと山口のチームだから」という理由だった。周囲はほぼカープ一色というなかでたった1人。球団名がベイスターズに変わる前(92年)、隣県の福岡にホークスが移転する直前(89年)、さらにいうと、Jリーグ誕生(93年)前の話だ。同級生どうしがSNSで繋がる2019年にも、彼はひとり、ベイスターズファンとしてカープファンに噛み付く。周りもそれを煽って楽しんだりもする。
筆者の同級生の話とは別に、2017年の日本シリーズの際には、福岡ドームの周辺でベイスターズグッズを飾った下関ナンバーの車を結構な割合で目にしたりもした。個人的な思いとしても、3月10日はそういった記憶の糸が線としてつながる日だ。
JR下関西口は「大洋DNAスポット」
大洋ホエールズのDNAを巡る小旅行のスタート地点には、JR下関駅がオススメだ。構内のうどん屋のお母さんからして、「王・長嶋を下関で見たのよ~」という話をしてくれる。王のプロ入りは1959年だから、川崎移転後の試合で見たのだろう。
駅の西口に多く、その足跡がある。道路を渡ってすぐにニッポンレンタカーの営業所。そこがかつてのホエールズの親会社だった「大洋漁業本社」の本社跡だ。
1936年にここに本社ビルが建った。2009年10月まで当地で姿を留めたが、その後解体。現在は跡地であることを示す小さな石碑が残っている。
この本社跡地を背に、駅前の大きな通りを右(大和町1丁目方面)に進む。下関西ワシントンプラザホテルを過ぎると、小さなタンクが見える。
ここが「水産会館」の跡地。大洋漁業の迎賓館だった。かつてはホエールズの選手も宿泊したのだという。
さらに行くと、下関漁港が見えてくる。1982年に国際捕鯨委員会(IWC)が商業捕鯨を一時禁止とし、さらに82年に完全禁止するまでは鯨の水揚げで賑わった場所だ。現在はフグなどの水揚げが行われる。
取引がない時間も地面に染み込む、少し生臭い匂い。本当に鯨肉の売上で財を成した会社が、過去にプロ野球チームを保有したんだ、という事実を認識させる。
昭和13年の「報知新聞」によると、栄養源としての鯨一頭の価値は「牛120頭分」。背や腹の肉のみならず、しっぽから内蔵まで食せた。また欧米ではもともと皮下脂肪から採れる油分を燃料や食用として活用してきた。
「本当に景気が良かった頃は、船員が陸に戻ってきた後、酒を飲んでどんちゃん騒ぎをしてね。その後、県外までタクシーで帰る方もたくさんいましたよ。金に糸目をつけずに遠くは鳥取、島根あたりまで帰るんです」(付近で話を聞いた60代男性)
今では下関でも鯨肉を一般的に食する機会は少ないという。
本拠地だった旧球場跡はいまは面影もなく……新生の地元サッカーチームも「ホエールズ」
歩いて下関駅に戻り、次は「旧下関市営球場跡」に向かう。タクシーで1000円ほどの距離で、そこにたどり着ける。
今回の取材過程で、なんとか1950、51年当時の話を知る人にたどり着きたかったが、それは叶わなかった。現在の球団で現場の最古参の田代富雄コーチとて、選手として大洋に入団したのが1976年だ。
1950年の球団初試合で先発した今西錬太郎さんは1924年生まれで現在94歳。
1950年3月10日 まるは2-0国鉄@下関。
今西が2安打完封。球団は3試合まで「まるは」として戦い、4試合目から「大洋ホエールズ」に。
今西さんは球団の初試合が行われた1950年時点で26歳だった。50年の大洋移籍前に4年間阪急でプレーし、通算70勝を挙げる実績を有していた。
旧球場跡までの道のりで乗ったタクシーの運転手、大石さんは「小学校低学年の頃の記憶がある」という。川崎移転後のチームの試合を観に、旧下関市営球場に通った。
「昔は路面電車が市内を走っていてね。電車に乗って球場に行ったものです。桑田武、近藤昭仁、近藤和彦を覚えている。桑田はホームラン王になってね。1960年に優勝した時は大騒ぎした、というより『よくぞやったな』と感心した記憶があります」
そんな話をしつつ向かった旧市営球場の跡地は……「下関市立市民病院」へと姿を変えていた。かつて球場があったことを思わせるものは一切ない。
ただ、そこ一帯は運動公園となっており、かつては野球場と陸上競技場が真横に並ぶ構造であったことは想像がついた。
球場跡地横の陸上競技場は改装中だった。そこでは、J2リーグのレノファ山口が年間に数試合を行ってきたほか、新たなスポーツの息吹も芽生えている。
下関市からJリーグを目指す「FCバレイン下関」。06年に設立され、県4部リーグ(J1から数えると9部に相当)から一つ一つステップアップしている。今年からJ3リーグから2つ下のカテゴリー中国リーグ(5部)に昇格し、戦いを続ける。ここまでは市内の別の芝生ピッチで試合をしてきたが、今季、9月1日のホームゲーム1試合をここで行う。
バレインはフランス語で「鯨」の意味。クラブ公式HPには大きく「鯨撃(げいげき) 下関にJリーグを」の文字が記されている。ユニフォームはかつてのホエールズと同じ紺と白を基調としている。
大洋漁業の本社移転は、下関にとって大きな出来事だった
その他、市内の小高い丘には、大洋漁業創業ファミリーの中部(なかべ)家の邸宅が代々集まるエリアがある。地元では「中部通り」と呼ばれている。さらに関門海峡沿いを走るとかつて中部家が所有した邸宅が「長府庭園」として一般開放されている(入場有料)。
関門海峡を走りつつ、下関駅に戻る道のりで地元出身のタクシー運転手の木村さんがこんな話をしてくれた。
「1949年(昭和24年)の大洋漁業本社の首都圏移転は、下関からすればかなり大きな出来事だったと思いますよ。大企業でしたから。ひとつの会社が去っただけではなく、下請け、孫請けの会社も経営ができなくなっていったわけです」
大洋球団は実のところ、本社が首都圏移転後の1950年にスタートしている。経営者の中部家は移転後も「下関を大切にする」という考えがあったとされる。ホエールズは下関への大事なメッセージだったのだ。
ただ、当時の人口は約19万3500人(国勢調査による)。広島に次ぐ中国地方第2の都市だったとはいえ、プロ野球球団を支えきる人口規模がなかったのではないか。
大洋球団はその後、横浜に本拠地を移転し、92年にチーム名から企業名を排した「横浜ベイスターズ」に名を変えた。そして02年には球団名・ロゴを一切変更しないかたちで球団筆頭株主をTBSに譲る。プロ野球史上、こうやって経営権を譲った親会社は存在しない。粋に作って、粋に引き継ぐ。そういう姿は想像のし過ぎか。もちろん、球団経営に関する葛藤はかなりあっただろうが。
球団創立70周年キャンペーンのメインスポンサーは”マルハニチロ”だ。いうまでもない、大洋漁業・まるはの現在の姿だ。そんな姿で、情熱的かつ粋に下関の地に戻ってきた。ここにもまた、DeNA球団のDNAが現れているように思う。
思えば歴代プロ野球のチーム名で、それを食して人の力になってきたものはほぼない。巨人も虎も竜もライオンもマリンも人間は食さない。鯨だけだ。
だからこそ、そのDNAは濃い。今、ホエールズの名は消え、新しい名前になった。クジラの命は、湾岸に輝く星のひとかけらになっている。そういうことなんだ。きっと。