「津波防災の日」「世界津波の日」のきっかけとなった「寅の大変」 東海地震の32時間後の南海地震
津波防災の日
平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による津波により多くの人の命が失われました。このとき、もし皆が、より高い所へ逃げていれば、もっと数多くの命が助かったのではないかという思いが、多くの人の心に残ります。
平成23年6月に成立した津波対策推進法により、国民の間に広く津波対策についての理解と関心を深めるようにするため、11月5日が「津波防災の日」となりました。
また、国連では昨年から11月5日を「世界津波の日」としています。「津波防災の日」と同様の理由からです。
これらは、安政南海地震で津波が襲った日、旧暦の11月5日に由来します。
「世界津波の日」の行を、11月6日9時に追記
国語読本に載った「稲むらの火」
嘉永7年の南海地震のとき、和歌山・浜口儀兵衛が稲むらに火をつけた話に感動した、神戸クロニクル社(貿易関係の英字新聞社)の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)記者が書いたのが「A Living God(生き神様)」です。その書き出しは、私たちの神様と違って、日本には多くの神様がおり、その中には、生きている人が神様になっているというものです。
小泉八雲は松江師範学校(現島根大学)の英語教師時代に結婚した小泉セツのため、日本国籍をとる手続きが行われていた神戸で新聞記者をしており、4ヶ月前に帰化したばかりでした。日本のことを書いた英文が少なかったこともあり、「A Living God」は、師範学校での英語授業に使われます。
和歌山県の南部小学校教員の中井常蔵は、教師を養成する和歌山師範学校時代の授業でこれを学び、「地元にこのような偉人がいたのか」という強い衝撃を受け、「A Living God」をもとに、小学生にもわかりやすい話を作り、文部省の教材募集に応募したのが「燃ゆる稲むら(津波美談)」です。そして、採用され、実際に使われた教科書では「稲むらの火」と改題されました。
昭和12年10月から約10年間、全国の尋常小学校では、「国語読本(5学年用)」に載った「稲むらの火」を使って防災教育が行われています。
地震・津波・高いところ
全国の尋常小学校で使われた「稲むらの火」によって、「地震がおきたら津波がくるので、高いところに逃げよ」という考えが多くの日本人に浸透し、その後、多くの人を津波被害から救いました。ただ、戦後になり、戦前の教育は軍国主義を助長するということで否定され、その結果、「稲むらの火」もなくなっています。
しかし、「地震がおきたら津波がくるので、高いところに逃げよ」は大事なことです。「津波防災の日」は、その再評価です。
ただ、私は、11月5日が「大きな津波被害があった日」ではなく、「津波に対しての対策を始めた日であり、その対策によって被害が大きく軽減できた日」と考えています。
「A Living God」、「稲むらの火」で書かれていることは、物語の性質上、デフォルメされ、真実とは違っています。浜口儀兵衛(のちに梧陵と称した)が機転をきかし、稲むらに火を附けさせたので全村民がこれを目的に駆け出して助かったという話よりも、もっとドラマチックで、教訓に満ちています。
もっと高く評価すべき人物と思います。
寅の大変
ぺリーの黒船によって鎖国が終わった嘉永7年は、甲寅(きのえとら、こういん)の年でした。干支の組み合わせで60年に1回めぐってくるのですが、この年生まれの人は、「勢いの良い寅(猛虎)」と言われています。勢いの良いどころではなく、嘉永7年は大きな地震災害が相次ぎ、「寅の大変」と呼ばれています。
嘉永7年11月4日(1854年12月23日)9時頃、東海道沖を震源とする東海地震が発生します。甲斐や駿河、遠江の一部で震度7を観測し、太平洋側に最大23メートルの津波が発生し、2000~3000人が亡くなったといわれています。日露和心条約を締結するため下田に来ていたプチャーチンのディアナ号が座礁・大破していますが、このことが、後の日本の造船大国につながっています。
東海地震から約32時間後の11月5日(12月24日)17時頃に南海道沖を震源とする南海地震が発生します。紀伊や土佐の一部で震度7を観測し、太平洋側に最大16メートルの津波が発生し、数千人が亡くなったといわれています。
そして、2日後の11月7日(12月26日)に豊予海峡を震源とする豊予海峡地震が発生しています。四国から九州では、南海地震で助かった建物が、豊予海峡地震で壊れるなど、かなりの被害があったと考えられていますが、被害地域が南海地震と重なっているため、詳細は不詳です。
「寅の大変」により、嘉永7年11月27日に安政と改元されています。当時は、改元されると公式文書は全て1月1日に遡って直しますので、嘉永7年におきた出来事は、全て安政元年おこった出来事になります。
発生したときは嘉永7年であった東海地震、南海地震は、安政東海地震、安政南海地震と呼ばれます。
広村堤防の建設
「稲むらの火」のモデルとなった浜口儀兵衛は、紀州広村出身で、広村から関東に進出し、銚子で醤油を作って江戸で売ることで財をなしたヤマサ醤油の浜口家をついでいます。
代々、浜口家の当主は「儀兵衛」を名乗っています。
正月をすごすために広村の戻り、そこで安政東海地震を体験します。
強い揺れと津波で、一旦避難し、家に戻った後に、さらに強い揺れと大きな津波の安政南海地震を経験します。
浜口儀兵衛は、過去の伝承から大きな津波がくると思い、若者をつれて稲むらに火をつけてまわり、暗闇の中を逃げ回っている人が高台へ逃げるための目印にしたのです。
昭和9年に浜口梧陵翁五十年祭協賛会が作った「浜口梧陵小伝」には、安政の津波実況の図が掲載されています(図1)。これは、津波にあった広村の古田庄左衛門がその実況を模写したものです。中央部には、宵闇迫る混乱の中を逃げ惑う群衆のために、危険を冒して田圃の中の十数の稲むらに火を放ち、その逃げ道に示している梧陵が描かれています。
また、「浜口梧陵小伝」には、次のような浜口梧陵の手記が掲載されています。
浜口儀兵衛は、再来するであろう津波に備え、巨額の私財を投じて広村堤防を作っています。
4年間にわたる土木工事の間、女性や子供を含めた村人を雇用し続け、賃金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして村人の離散を防いでいます。
浜口の作った堤防には松林の内側にロウソクの材料ともなるハゼの木が植えられ、堤防を保守する人々の手間賃の足しにするというところまで考えていました。(図2、冒頭の写真)。
アメリカへ勉学の旅
家督を嗣子に譲り、一切の公職から引退し、浜口梧陵と名乗っていた浜口儀兵衛は、65歳のとき、若い頃からの夢であった勉学のため洋行を決意します。明治17年5月30日、横浜港からシティ・オブ・トーキョー号に乗船し、6月にサンフランシスコに着くと各地を歴遊して10月にニューヨークに着きます。
しかし、そこで病にかかり、翌18年4月21日に永眠します。享年66才でした。
日本への帰国を勧める医師等に対し、「どうせ死ぬなら、ここで死んでも日本へ帰って死んでも同じことだ。むしろ欧州へ行って死んだ方がいい」と言ったと言われています。
昭和南海地震で生きた梧陵が作った堤防
安政南海地震から92年後の昭和21年(1946年)12月21日、昭和南海地震が発生し、約30分後に高さ4~5メートルの大津波が未明の広村を襲いましたが、浜口儀兵衛の作った堤防は、村の居住地区の大部分を護っています。
浜口儀兵衛は、嘉永7年に神様と思われただけではなく、昭和21年にも神様のような働きをしたのです。
冒頭の写図と図2の出典:饒村曜(2012)、東日本大震災 日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。