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「荒れる学校」は「道徳」では静まらない

前屋毅フリージャーナリスト
(ペイレスイメージズ/アフロ)

文部科学省は先月28日、2015年度における「児童生徒の問題行動調査結果」の「確定値」を公表している。昨年10月に「速報値」を発表しているが、「教育委員会の集計ミスが主な理由」で、いじめ件数が確定値では592件増えたという。

集計ミスで、件数が確定値で速報値よりも少なくなったというならいいが、増えているのは残念である。しかも2015年度のいじめ件数は、速報値で「過去最多」とされていたが、もちろん「確定値」でも「過去最多」である。

小中高と特別支援学校で2015年度に把握されたいじめは22万4540件(確定値)で、前年の2014年度は18万8072件であり、大幅に増えている。しかも、これは「把握された」件数であるから、実態は、まだ多いと推測できる。

いじめ件数が増え、まさに学校は荒れた状態にある。

これに対して文科省が対策にのりだすのは当然のことである。ただし、やり方を間違えれば逆効果になってしまいかねない。昨年11月、松野博一文科相はいじめ防止対策について次のように述べている。

「私は特に、平成30年度から全面実施となる『特別の教科 道徳』の充実が、いじめの防止に向けて大変重要であると思っています」

いじめ防止策で文科省が重視しているのは、道徳の授業ということだ。小中学校の道徳は、すでに2018年度から「特別の教科」としての位置づけがはじまっている。

わざわざ「特別の教科」としているのは、他の教科が点数で評価するのに対して、「評価を文章で表す」からである。点数で比較しない配慮なのだろうが、評価されることに変わりはない。

そして「特別の教科」となった道徳は、「考え、議論する道徳」への転換である、と文科相は説明している。いじめ問題については、「あなたならどうするか」を真正面から問い、自分自身のこととして、多面的・多角的に考え、議論していく、のだそうだ。

これが実現できれば、あるていどの効果はあるかもしれない。しかし、その実現性については大きな疑問が残る。

現在の学校では、「教員が子どもに知識を教え込む授業」が主流となっている。それに、教員も子どもも慣れきってしまっている。いきなり「考え、議論する」といわれても、戸惑うしかないのだ。考えて議論するには、知識だけでは不十分すぎる。

そして、「教え込む授業」の最大の特徴が「評価」である。評価によって、教え込みの成果をはかっているにすぎない。点数を文章に変えてみても、知識をはかる旧来の発想から離れないかぎり、益があるどころか、害すらある。

「特別の教科」として点数を文章にしたからといって、評価することに変わりはない。すぐに子どもたちは、高い評価をとるためのテクニックを身につけるちがいない。教員も、高い評価をとらせるための「教え込む」テクニックにいっしょうけんめいになる可能性は高い。それは価値観の強制でしかなく、子どもの成長を尊重したものとはいいがたい。

いじめを自分自身のこととして多面的・多角的に考えて議論する方向に子どもたちが向かうのか、については疑問である。たぶん、そうはならない。

いじめは道徳という教科ではなくならない。学校が荒れることの解決にもつながらない。とはいえ、もしも文科省が本気で考えているとしたら、せめて「評価」という発想から離れることが先決である、と考える。

フリージャーナリスト

1954年、鹿児島県生まれ。法政大学卒業。立花隆氏、田原総一朗氏の取材スタッフ、『週刊ポスト』記者を経てフリーに。2021年5月24日発売『教師をやめる』(学事出版)。ほかに『疑問だらけの幼保無償化』(扶桑社新書)、『学校の面白いを歩いてみた。』(エッセンシャル出版社)、『教育現場の7大問題』(kkベストセラーズ)、『ほんとうの教育をとりもどす』(共栄書房)、『ブラック化する学校』(青春新書)、『学校が学習塾にのみこまれる日』『シェア神話の崩壊』『全証言 東芝クレーマー事件』『日本の小さな大企業』などがある。  ■連絡取次先:03-3263-0419(インサイドライン)

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