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なぜ東京電力を免責にできなかったのか

森本紀行HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

東京電力福島第一原子力発電所に事故が起きたとき、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条ただし書きに書かれている「異常に巨大な天災地変」による免責の意味をめぐって、当時の民主党政権のなかで、どのような検討がなされたのでしょうか。事実としては、免責は否定され、司法の判断を仰ぐ機会もなく、今日に至っていますけれども。

『福島原子力事故の責任-法律の正義と社会的公正-』

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私は、東京電力について、福島第一原子力発電所の事故直後から、事実上の国有化に至るまで、政府の対応を厳しく批判する論考を、事案の推移とともに、毎週のように、異常な熱意をもって、発表し続けました。それらの論考は、後にまとめて『福島原子力事故の責任』(日本電気協会新聞部、2012年9月刊)という本にしました。

本の副題は、「法律の正義と社会的公正」となっています。この副題に、当時の私の情熱の全てが籠められています。そもそも、原子力発電は、どのような法律的な前提のもとで、行われてきたのか。法律が正しく適用される限り、不幸な事故の発生によっても、前提となっている法律関係は、覆し得ないはずではないのか。

もちろん、将来に向かって、事故の経験を踏まえて、法律等の制度改正を行うことは、当然になされなければなりません。しかし、いかなる法律の改正も、将来に向かってのみ、法律的に有効です。過去に確定していた法律関係は、いかなることがあっても、決して変えることはできないのです。

たとえ福島の事故の被害がいかに大きくても、原子力政策に抜本的転換が起きても、また、国民感情がどうであれ、法律的に変えることのできないものは、決して変えることはできないのです。もしも、この法規律が守られないのならば、法律の予見可能性は失われ、金融秩序はもちろんのこと、国家としての秩序が崩壊してしまうからです。

民主党政権の対応の問題点

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では、民主党政権のもとで、法律の適用が歪められたのでしょうか。これは、膨大な論考を通じて、また、本一冊を費やした論証によって、仔細に論じたことですから、簡単には答えようがありません。しかし、敢えて、整理すれば、次のようになります。

第一に、「原子力損害の賠償に関する法律」第三条のただし書き、即ち、「異常に巨大な天災地変」による免責を否定して、東京電力の責任を認めたことは、正しかった。

第二に、新たに法律を作り、原子力損害賠償支援機構を設立し、東京電力を存続せしめたことも、正しかった。

第三に、原子力損害賠償責任について、第一義的に東京電力に責任があるとしたことは、法律の主旨に反して、誤りであった。立法の経緯等からみて、法律上、第一義的な責任は政府にあるとすべきであった。

第四に、東京電力に対する政府支援のあり方として、東京電力の事実上の国有化を行ったことは、法律で定めた支援の範囲を超えるものであり、不適切であった。

最後に、そして、最も重要なこととして、法律は、事故の発生によって生じた原子力損害について、賠償責任だけを定めたものであり、厳密に、そのことだけにかかわるものであって、その余のことは、一切介入させる余地のないこと、この大切なことの確認は、不十分であった。

特に、最後の論点、東京電力に関する非合理的で感情的な発言、法律を無視した、あるいは法律に対する無知に基づく暴言、それらの横行に対して、私は、黙っていられなかったのです。いや、むしろ、無法な議論の横行自体に対してよりも、そのような無法な議論の横行に対して完全な沈黙を決め込む専門家、あるいは識者と呼ばれるべき人々に、強い憤りを感じたのかもしれません。

法的整理論の誤り

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例えば、東京電力に対する制裁的な意味を込めた法的整理論への反発です。いまだに、東京電力を破綻処理すべきであるという人がいるようです。ましてや、事故直後には、破綻処理論は、圧倒的に強かったと思われます。

しかし、極めて明らかな問題として、損害賠償は、損害賠償の履行能力があってこそ、被害者の救済としての意味をもつのです。故に、法律は、東京電力を存続させ、事業を継続せしめて、賠償原資を確保できるように制度設計してあったのです。そのために、政府の支援義務を定めていました。

また、これも当然のことなのですが、電気事業の継続には、燃料費の調達など、巨額な運転資金を必要とします。故に、東京電力の資金調達の道は、何が何でも、確保しておかねばなりませんでした。そうでなければ、電気の安定供給体制が危機に瀕するからです。

東京電力に対する金融機関の融資、東京電力の社債と株式は、いずれも東京電力の資金調達の手段なのです。ですから、これらは、保護されなくてはならないのですし、法律も、その必要性を前提として、破綻を回避させるための政府支援を定めていたのです。

枝野官房長官の許し得ない発言

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ですから、当時の民主党政権は、正しく、法律を適用したのです。ただし、その結論に至る経路や、国民に対する説明のあり方など、私には、いくつも、許せないと感じる場面がありました。

なかでも、当時の枝野官房長官の言動には、何度も、強い憤りを感じました。例えば、枝野氏は、東京電力の法的整理がなければ国民は納得しないだろうと発言し、大きな混乱をもたらしました。さすがに弁護士である枝野氏(実際、法律家として、という前置きをした発言をしたこともありました)は、法的整理があり得ないことを熟知し、更には、政府として、それを認める気など全くなかったにもかかわらず、当時の国民世論に迎合するためにのみ、このような無意味な発言をしたのです。

実際、この同じ枝野氏は、東京電力を法的整理すると、法律により特別に保護されている社債権者が優越し、法律上の特別の保護のない原子力損害賠償債権は、銀行の債権等と同等の地位になってしまう、従って、その面からも、法的整理はあり得ないのだという正しい説明もしていたのです。

それなのに、なぜ、東京電力の法的整理がなければ国民は納得しないだろうと発言しなければならなかったのか。政府の責任というのは、法律の正しい適用であり、その正しさを国民に丁寧に説明することではないのか。国民を納得させるのが政府の責任ではないのか。私は、政府の品格が問われているのだと思いました。

日本憲政史に残る汚点

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私は、東京電力の免責を主張したのではありません。東京電力の免責を否定するのならば、法律上の根拠が必要であると主張したにすぎません。

それに対して、当時の菅総理大臣は、東京電力を免責にするのならば、東京電力の責任を問えなくなる、故に、東京電力を免責にすることはできない、このような乱暴な論理で政府の方針を説明したのです。つまり、当時の政府は、法律の適用として、東京電力が免責になる可能性を十分に視野に入れていたわけで、問題は、免責にすると、東京電力の責任を問えないので、強引な法律解釈によってでも、免責にできない、そう結論したことになります。

これは、後代まで日本憲政史に残る汚点です。私は、この一点だけは、当時も、今も、そして将来も、断じて許すことはできないのです。

法律の欠陥

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しかし、法律の構造上の欠陥もあって、免責を否定するほかなかったのも、事実です。私の論証も、法律の構造の問題に重点を置いていました。法律は、東京電力を免責にした場合、その後の対応については、ほとんど何も具体的に規定していないのです。それに対して、免責を否定して、東京電力の責任を認めれば、政府の支援義務の規定があるのです。

つまり、政府としての対応を可能にするためには、菅総理がいったとおり、東京電力を免責にすることはできなかったのです。このことは、事故直後から、政府の方針として、明らかでした。枝野官房長官の発言には、政府と東京電力の連帯責任を明確に認めるものもあったのです。

そして、立法の経緯からしても、連帯責任が予定されていたことは、明らかです。なぜなら、原案は、政府による損害賠償を第一とし、原子力事業者の責任は、政府からの求償によって明らかにしていく仕組みだったからです。

政府と東京電力の連帯責任という構図を実現するためには、つまり、政府の責任を明確にするためには、逆に、東京電力の責任を明らかにしなければならない、そのような法律上の問題があって、東京電力を免責にできなかったのです。

東京電力の第一義的責任を主張した政府

政府は、法律の適用からして、裏では、政府と東京電力の責任の連帯性を認めていました。にもかかわらず、常に、責任は第一義的に東京電力にあるという主張を繰り返し、決して、政府の責任を正面からは認めようとしませんでした。東京電力に第一義的な責任があるといい、常に、東京電力の陰に隠れる卑劣な態度に終始したのです。

責任の連帯性とはいっても、政府の対応では、東京電力が圧倒的に主で、政府は従、それも限りなく無に近い従だったのです。それに対して、私の主張は、政府の責任が主で、東京電力の責任は従、それも五分五分というような姿勢で、とにかく、政府と東京電力が共同して、真摯に事故処理に当たるべきだというものでした。その主張は、今も、全く変わりません。

国策としての原子力発電

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また、政府責任が強調されなければならない理由として、原子力事業の国策としての背景があります。「原子力損害の賠償に関する法律」の第一条は、法律の目的として、「被害者の保護」と並んで、「原子力事業の健全な発達」も掲げています。しかも、法律の原案には、「原子力事業の健全な発達」しかなく、「被害者の保護」は、後に付け加えられたものなのです。

実は、この法律は、戦後復興経済体制の延長として、国策としての原子力発電を遂行するために作られたのです。この大前提は、今日でも、有効であるはずです。故に、政府の責任が前面に出なければならないのです。

「異常に巨大な天災地変」と安全基準

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また、「異常に巨大な天災地変」の法律的に意味のある解釈として、政府が定めた厳しい安全基準をも超えていて、故に、技術的な予見可能性において、事故を未然に防げなかった事態とせざるを得ないことは、自明です。事実、現在行われている原子力安全基準の抜本的見直しも、まさに、こうした法律の枠のなかにあるはずです。

しかるに、事故直後の時点において、また現時点でも、東京電力が政府の安全基準に反していたという事実は、立証されていません。ならば、東京電力を免責とすべきではないのか。責任は、不十分な原子力安全基準を定めていた政府にあるのではないのか。確かに、この直感が、私をして、この問題へ関心を向けさせたのです。それは、事実です。

しかし、私は、直ちに、法律の構造に重大な欠陥のあることに気が付きました。同じことは、政府も気付いたはずです。つまり、もしも、東京電力を免責にしてしまうと、同時に、政府も免責になってしまうということです。故に、東京電力を免責にできなかったのです。

こうした法律の論理を十分に承知し、政府責任の所在を認めていたからこそ、逆に、政府は、自らの責任を曖昧にし、東京電力の後ろに隠れなければならなかったのです。ならば、政府の責任を徹底的に追及することは、健全なる言論界の責務ではないのか。なのに、言論界に横行するのは、無法で感情的で非合理的な東京電力批判だけではないのか。故に、私は、黙っていられなかったのです。

前面に出る安倍政権

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安倍総理大臣の登場は、政府の姿勢を、抜本的に転換させました。安倍総理は、原子力事故の処理について、はっきりと、政府が前面に出る、といわれました。

前面は、全面ではありません。これは、法律構造上、当然です。安倍総理の発言は、政府と東京電力の連帯責任を前提にして、明確に、政府が前、東京電力が後、という構図を明らかにされたものです。これで、私の主張の通りになったのです。以来、私は、この問題について、発言するのを止めました。

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長

HCアセットマネジメント株式会社・代表取締役社長。三井生命(現大樹生命)のファンドマネジャーを経て、1990 年1 月ワイアット(現ウィリス・タワーズワトソン)に入社。日本初の事業として、年金基金等の機関投資家向け投資コンサルティング事業を立ち上げる。 2002 年11 月、HC アセットマネジメントを設立、全世界の投資機会を発掘し、専門家に運用委託するという、新しいタイプの資産運用事業を始める。東京大学文学部哲学科卒。

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