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【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条時政と政子・義時姉弟の確執の原因は、牧の方にあった

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
政治権力を掌握した北条時政。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源実朝が晴れて征夷大将軍となった。一方、実朝が将軍になることで、北条一族内の確執が露見したので、その点を詳しく掘り下げてみよう。

■源実朝の征夷大将軍への就任

 2代将軍・源頼家が失脚すると、建仁3年(1203)9月に弟の源実朝が新将軍に補任された。翌月、実朝は元服式を済ませ、将軍家政所始の儀も執り行われた。

 これにより、実朝は名実ともに鎌倉幕府のトップとなった。なお、頼家は翌年7月に伊豆の修禅寺で殺害された。

 しかし、このとき実朝はまだ12歳の少年だった。幕府のトップになったとはいえ、それはあくまで形式的なものに過ぎず、強力な後ろ盾が必要だった。その後ろ盾こそが、祖父の北条時政だった。

 幼い実朝が実際の政務を行えるとは考えられなかったので、祖父の時政が後見するのは既定路線だった。時政は大江広元とともに政所別当に就任し、幕府権力の一端に名を連ねたのである。

■北条一族内の確執

 ここまでの北条一族は、時政と義時との円滑な意思疎通によって、一丸となっていた。この頃、時政は66歳で、義時は41歳だったので、そろそろ世代交代が迫っていたのも事実である。

 元久元年(1204)3月、義時は従5位下・相模守に叙位任官された。時政が老齢になる一方で、義時は脂の乗り切った年代に入っていた。頼家謀殺の首謀者は、義時だったとの説もあるが、それは義時の政治的な権力が評価されていたからとみなせる。

 この頃から、北条政子・義時姉弟と時政との確執が見られるようになった。両者が不和に陥ったのは、時政の妻・牧の方が原因だったといわれている。

 実朝が将軍になる頃、政子邸にいた実朝は時政邸に移った。しかし、牧の方が実朝に危害を加える恐れがあると聞き、ただちに政子邸に連れ戻した(『吾妻鏡』)。

 政子・義時姉弟は牧の方を危険視し、時政にも不信の念を抱いたのである。以降、両者の関係は悪化の一途をたどった。

■まとめ

 時政は比企の乱で比企一族を滅ぼし、実朝を将軍に擁立することで、幕府の中枢を掌握した。しかし、権力闘争の舞台は北条一族の内訌へと移り、さらに激しいバトルが展開されるのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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