国際金融センターへの挑戦
安倍政権は、成長戦略進化のための今後の検討方針として、「国際金融センターとしての地位確立への挑戦」という課題をあげています。「挑戦」という用語は、実現の困難性を前提にしているものでしょうから、実効性を求められる政策課題としては、極めて異例な語法です。さて、この挑戦に勝機ありや。
東京オリンピック効果
この政策、どこに源があるかというと、2013年の12月に「金融・資本市場活性化有識者会合」が公表した「金融・資本市場活性化に向けての提言」のなかで、大きく取り上げられたことにあるのです。そこでは、次のように、いわれています。少し長いですが、引用しましょう。
「金融・資本市場の活性化にあたっては、今こそこのチャンスを活かし、例えば「2020 年までに国際金融センターとしての地位を確立する」(2020 年に主要な国際金融センターとして、アジアにおいてナンバーワンの位置を占めることを目指す)との目標を掲げた上で、それぞれの課題分野における2020 年の姿を想定し、その実現に向けて、戦略的かつ大胆に施策を講じていくことが重要である」
ここにも、東京オリンピック効果です。6年という時間では達成困難な大きすぎる課題のようですが、2020年とか、アジアにおいてナンバーワン(一体、ナンバーワンを何の指標で測定するのでしょうか)とか、要は、数値目標を明確において、工程表通りに着実かつ確実に推進するというのが安倍政権の基本的手法ですから、ここは、それを踏襲したものでしょう。
いうまでもなく、より重要なことは、「2020 年の姿を想定し、その実現に向けて、戦略的かつ大胆に施策を講じていくこと」です。つまり、「2020 年の姿」を具体的な構想にまとめ、実効可能な施策におとすことなのです。
2020年の姿
では、2020年の姿とは、どのようなもの。私なりに提言のなかの重要だと思われるところを拾い出すと、具体的な姿としては、以下のような現象が当たり前のものとして日本国内に現出している状態だと思われます。
即ち、「アジアの金融・資本市場の存在感が急速に高まる中で、我が国への投資環境の整備や運用機関の能力向上を図ることなどにより、世界の機関投資家や高度金融専門人材が我が国に集まり、質・量共に高い運用が行われ」ていること。
また、「世界の主要な金融センターにおいては、年金基金や政府系ファンド等が機関投資家・運用業者を厳しく選別することにより、内外の優秀なプレーヤーが切磋琢磨し合っている」こと。
そして、「東京市場が他の主要な金融センターに比肩し得るほどに多様な資金調達ニーズに応えるとともに、内外の投資家が多様な投資対象をタイムリーに見つけ得る厚みのある市場」になっていること。
不可能への挑戦という意気込み
つまり、2020年に実現しているべき姿とは、世界中から、資金を調達する人と、資金を運用する人とが、日本に集い、切磋琢磨し、常に金融手法の創造と革新が起きている状況ということなのです。
しかしながら、金融界の専門家ならずとも、日本の現状がそのような姿とほど遠いことは、知り抜いているはずです。それは、この提言をまとめた有識者の方にとっても、自明だったはずです。
実際、私なども、頻繁にロンドン、ニューヨーク、シンガポール等の「世界の主要な金融センター」を訪問している経験からして、東京を「国際金融センター」とは呼び得ないことは、痛感します。
しかし、これまで、日本の金融資本市場の機能が海外主要市場と比較したとき著しく劣後していることは、関係者の誰の目にも明らかであったにもかかわらず、その事実は公式に認められずに放置されてきたが故に、改革も起きなかったのです。改革が起きなかったのは、関係者の思いや努力というよりも、やはり、構造改革を断行するための思い切った政策主導の強い力が働かなかったからです。
今、安倍政権は、国際金融センターへの挑戦という政策課題を掲げることで、正面から、日本の現実が国際金融センターにほど遠いことを認めました。そのうえで、これまでの遅れを一気に取り戻して、猛烈な速度で改革を成し遂げるという意気込みを明らかにしたのですから、金融界の社会的責務として、この課題には、真剣に取り組まねばならないでしょう。
とにかく始めることが大事ですから、2020年の姿としては、実現可能性というよりも、本来あるべき姿、あるいは究極の理想を高く掲げることで、金融界の共通課題として、そこに向かって邁進する、挑戦という意味は、まさに、そのような行動様式でなければなりません。
切磋琢磨
挑戦の推進力の主役は民間です。政府の機能は、第一には、常に高い目標としての2020年の姿を掲げ、それをより高く更新していくという旗振り役といいますか、先導役にすぎません。また、第二の機能は、新しい制度の設計よりも、民間の改革の障害となるような古い規制や慣行などを徹底的に除去することでしょう。
実際、日本の金融の問題は、制度の設計ではなくて、制度の利用状況の問題であり、利用技術の問題であると思われます。制度はあっても、使われなければ、利用を通じた技術の修練も、高度な利用法が促す制度の改善も起きません。そうしているうちに、今度は使おうと思っても、錆び付いた制度は、動きはしないのです。
ですから、政府の機能としては、錆を落とすことと、利用を促進すること、この二つが重要になるのです。実際、有識者会合の提言でも、制度の不備よりも、制度の使い方の質が問題にされているのです。
質を改善するためには、安倍政権の政策に共通する方向として、競争、提言でいうところの切磋琢磨が重要な役割を演じるのですが、切磋琢磨などということを制度的に強制することなど、できるはずもありません。
よりよい統治
故に、民間における主体的な取り組み姿勢、即ち、資金供給側における統治と、資金調達側における統治が問題になるのです。
資金供給側における統治と、資金調達側における統治と、どちらが先決なのかは、わかりませんが、需要優先の考えからいえば、調達側における工夫が供給側における工夫を促すというのが、本来の姿であると思われます。
提言にも、「多様な資金調達ニーズに応える」とありますが、これは、資金調達をする産業界において、「多様な資金調達ニーズ」がなければ、金融界として、応えようがないのです。ここにこそ、日本の金融が発展してこなかった究極の原因があります。
資金調達をする側において、株主や債権者などの利害関係者間の適正な利益衡量を図ることから、「多様な資金調達ニーズ」が生まれる、そのためには、資金調達する側の内部統治の改革が必要なのです。
もっとも、付随して、金融界の側でも、多様な資金供給の手法を提案できていたかについては、供給側の論理が横行していたのではないか、伝統的手法に頼りすぎて創造性を欠いていたのではないかなど、反省すべき点が多いでしょう。まさに、金融力の向上ということがいわれる所以です。
要は、資金供給側において投資先企業の厳選を徹底していくことは、結果的に、よく統治された企業にとっては、資金調達力を高めて競争優位を確保できるようになっていくことから、真の産業界の競争による淘汰再編が加速してゆく、そうした流れこそが、日本の産業競争力を高めていく経路である、これが、煎じ詰めれば、安倍政権の政策なのです。
切磋琢磨というのは、資金の供給側と調達側の間に、また、供給側相互の間に、調達側相互の間に、国境を越えて、重層的に展開されていくのです。そのような、活力ある、しかも世界に開かれた動態的展開こそ、国際金融センターが備えているべき条件だということです。
金融インフラ
では、全く新しい制度は必要ないかというと、そうではありません。数は少ないですが、その分、本質的かつ抜本的に新しいものへ転換されなければならないことがあります。それは、提言にも、「我が国への投資環境の整備」とあるように、金融センターとしての一種のインフレの整備のことです。
国際金融センターとしての日本(実質的には東京、そして、おそらくは国家戦略特区としての東京でしょうね、もちろん、東京でなくてもいいのですが)では、海外から資金が流入し、また、そこから海外へ資金が出ていく、要は、常時、膨大な資金の流れが日本のなかを貫流しなければならないわけですが、その流れを滞りなく支えるためには、巨大な情報基盤、即ち金融のインフラがなければならないのです。
金融界の誰しもが懸念として思うことは、日本には、この金融のインフラが整備されておらず、その短期間での構築は、至難の業なのではなかろうかということでしょう。金融インフラを構成するものは、国際的に通用する法制度と会計制度、高度に訓練された大量の専門人材、完全な英語によるコミュニケーション、この三つの確立でしょうが、どれ一つとっても、現状を見る限り、至難を超えて、不可能に近いようです。
信託の改革
英語、人材の育成、英語による国際会計基準準拠の報告などは、力技かもしれず、何とかなるかもしれませんが、法整備のほうは、特別に難しそうです。金融というのは、要は、法律上の権利の問題にほかなりませんので、法律的予見可能性のないところには、決して資金は流れないのです。
英語は、歴史的経緯により、今や、国際共通言語として、不動の地位を確立したといっていいでしょう。同様に、金融法制も、歴史的展開の結果として、事実上、英米法の伝統が国際的には支配的になりつつあります。日本は、近代化に際して、日本固有の歴史的な経緯により、英米法を接受しませんでした。この法文化の差は、おそらくは、日本の国際金融センター化への大きな障害となり得るでしょう。
日本の関連法規の完全な英語訳ということは、確かに検討され始めたのですが、法律を英語にすることと、法体系、法解釈、法適用を英米法文化に準拠させることとは、全く違うことです。しかし、恐らくは、法律の英語化ではなく、法文化の英米法化こそが、必要なのではないかと思うのです。
そういう意味では、日本の金融関係法規のなかでは、信託法だけが英米法を接受したものですから、何か、そこに手掛かりがありそうです。
実は、金融法制のなかで、金融インフラという意味では、信託、英米法でいうTrustは、重要な機能を演じています。確かに、従来は、日本法のなかにおける孤立がいわれてきた信託法ですが、信託法の背景にある英米法の文化を幅広く導入することで孤立を解消していくことは、日本の金融法の革新の一つの経路ではないかと思われます。
実際、Trustの核心はFiduciaryの責任に帰着するのですが、このFiduciaryの責任は、直接的に、金融に従事する人の行動規範につながり、間接的に、企業の取締役の責任にもつながるものですから、まさに、国際金融センターへの挑戦として掲げられている課題に深く関連するのです。
私は、信託の革新こそが鍵であると思っています。