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三方ヶ原の戦いで壮絶な最期を遂げた本多忠真は、敵軍に突撃して戦死したのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、本多忠真が壮絶な戦死を遂げていた。忠真は本当に敵軍に突撃して戦死したのか、詳しく考えることにしよう。

 本多忠真は、松平家の家臣を務める忠豊の子として誕生した。兄は、忠高である。天文14年(1545)と天文18年(1549)の安祥城の戦いで、忠豊、忠高が戦死した。そこで、忠真は遺児となった忠勝(忠高の子)を養育したという。

 永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、忠真は忠勝とともに出陣した。前哨戦の鷲津砦の戦いで、危うく忠勝が討ち取られそうになったので、忠真は槍を投げて救ったという。忠真は忠勝と同じく、槍の名手として知られた武将でもあった。

 永禄4年(1561)2月、忠真は尾張石瀬で水野信元と戦った。このとき忠真は、槍で6度にわたり戦いを挑み、怪我をしても退かなかった。そして、7度目になって敵は逃げた。三河の人々は、これを「六度半の槍」と称したという。

 永禄6年(1563)に三河一向一揆が勃発すると、忠真は徳川方に与して戦った。そして、忠真の最後の戦いになったのが、元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の戦いだった。

 戦いは、徳川軍が不利な情勢で進んだ。家康は味方の不利を悟り、馬を返して撤退することになった。その際、殿(しんがり)として、最後尾で敵を追い払う役割を果たしたのが忠真である。

 忠真はたびたび迫りくる敵勢を討ったが、味方の被害も大きかった。忠真は自ら槍を手に取って、敵兵を6・7人討ち取ったが、なお敵の追撃は止まなかった。忠真は槍でさらに3人を討ち、最後は敵軍に突撃して戦死したという。

 以上の話は、『寛政重修諸家譜』に書かれたものである。実は、夏目広次が家康に撤退を進言し、自らが身代わりとして戦死したという逸話がある。忠真の死は、広次の最期と整合性が取れない。

 つまり、忠真が三方ヶ原の戦いで戦死したのは事実であるが、殿を務めて華々しく戦死したことについては、確かな史料による裏付けができない。この話も先祖を顕彰する意味合いが強く、史実とは認めがたいように思える。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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