「Bento」として世界で広がる日本の弁当。その一翼を担う日本人の挑戦(2)
ニューヨークで弁当を広めて17年になる、BentOn(べんと・おん)の古川徹さん。2006年に渡米し弁当事業を引き継いで以降、異文化の中でさまざまな困難と渡り合ってきた。
常温食という概念がなく食品の温度規制が厳しい市保健衛生局との闘い、リーマンショック、円高による原材料費の高騰、そして新型コロナによるロックダウン。「挫折だらけ」と語る自身の弁当人生について聞いた。
(前編より続き)
「達成感より恐怖心しかない」と語る海外での挑戦
「この事業がいつかなくなってしまうのではないかという不安で眠れない日もある」
ミッドタウンの店舗からクイーンズの自社工場への移動の車中、ハンドルを握りながら古川さんはそう本音を吐いた。「基本、落ち込みやすい性格ですしね」。意外にも陰キャラの側面を覗かせる。
「一番恐れているのは『明日からBentoはいらない』と社会にそっぽを向かれること。そうなると後は消えていくしかないので。世の中からクビにならないようにと考える日々は、達成感より恐怖心しかないです」
業績が伸び続ける大変さは、どの経営者も事業を長くやればやるほど身を以て知ることだ。伸び続けるどころか、新型コロナのパンデミックにより売り上げは90%激減した。「今はただ新たに1年、さらにもう1年という感じでいつもギリギリのところです」。
ロックダウンで時間ができたことで、「今まで作るばかりだったけど、売り方・届け方についても勉強をしよう」と、初めてマーケティングについて調べた。そして行き着いた先は、「コロナ禍では大手・中小企業どちらも不利な条件なのだから、自分はこれをチャンスにしよう。今までと同じことをやるよりいち早く違うことをやろう」ということだった。
まずは2つあった店のうちウォール街店を20年3月に畳み、ミッドタウン店1つに絞った。その代わりに新たなECサイトに着手した。
コロナ禍で動く時機を窺うさなか、聞こえてきたのは在米日本人の母親の声。「ステイホームで3食を毎日作り続けるのが大変」という話をよく耳にするようになり、「次はこれだと思いました」。
以前やっていた機内食のノウハウを元に、温めるだけでできる日本食の時短パッケージ「Japanese Meal Kit」を開発。早速在米日本人の母親に向けオンライン販売を開始した。まずは近くの母親から配り始めると、その評判は口コミで広がっていった。
これから古川さんが取り組もうとしているのはこのミールキットのさらなる拡大だ。ミールキットは今のところ日本食が中心だが、いずれはアメリカ人向けのメニューにシフトしていく考えだ。全米展開を視野に入れ、2つ目のセントラルキッチン(自社工場)を今年4月、オハイオ州にオープンした。
なぜオハイオなのかについて、古川さんはこう説明する。「ニューヨークは大陸の端で半分が海に面している地形のため、物流面で不利なんです。一方、内陸の中西部だと賃料も安く、物流面で地の利があります。オハイオは24時間以内に全米の75%に届けることができる場所として物流が盛んなんです」。
Bentoは、この17年間でアメリカの人々にどのように受け入れられてきたのだろうか。
「店に毎日買いに来てくれる人もいて、こんなに多くの品数が日替りだと褒めてくれます。最初は異文化のクールな食べ物として試し、気づけば弁当の良さを好きになってくれている印象です。もはや温度について“生温い”と言う人もいなければ『弁当って何?』と聞かれることもニューヨークではなくなり、弁当の文化自体が受け入れられた感がします」
パリやロンドンなどヨーロッパの大都市でも弁当ビジネスは盛んになりつつあり、世界的なトレンドの兆しが窺える。以前受けたテレビ取材で、古川さんはパリで弁当事業をしている人と話す機会があった。
「その方によると、パリで弁当が注目され始めたのはリーマンショック以降だそうです。経済的な打撃で、それまで十分な長さを確保していたランチ時間が短縮され、1プレートで前菜とメインが含まれるBentoスタイルがウケるようになったということでした」
古川さんに、ブームの一翼として自分がアメリカから弁当を広め一般大衆化させた自覚はあるかと問うと、「ちょっとあります」と即答した。謙遜しつつも海外での弁当事業の先駆者としての矜持を覗かせる。
今後について、「まだまだこれから。今やっとスタート地点に立った感覚です」と古川さんは自身を鼓舞する。「だって弁当がビジネス的に注目されているのであれば、ラーメン店のように乱立しているはず。Bentoという分野がさらに発展するためにライバル店の進出はむしろ歓迎なんですが、儲からないから競合他社が出てこない。開拓の余地はまだあります」。
今春オハイオの工場が本格的に稼働。さらに、詳細はまだ発表できないが、26歳の時に偶然テレビで知った男性との出会いと同等のオファーがきており、今回も「全部信じてみよう」と動いている最中だ。そして夢は大きく、「アメリカに憧れた元少年として、Bentoをアカデミー賞のような大きな祭典で出せるようになればいいですね。また弁当は究極のTo Goフード(テイクアウト)なので、いずれ宇宙食として採用されるようなことになれば嬉しいです」。
古川さんの車は、マンハッタンとクイーンズを繋ぐクイーンズボロ橋に差し掛かる。車窓からすぐそばに迫る壮大な摩天楼が見渡せる。見事な青空だ。
10歳の頃、空の色や自由の女神の景色がかっこいいと思ったのが、アメリカへの憧れの始まりだった。「こうやって住んで事業をやっているのが今でも夢のようで、まだ信じられないです」。運転しながら古川さんはそう呟いた。
あの時26歳の青年は44歳になった。「弁当をアメリカ市場に」。古川さんの新たな挑戦がまた始まる。
(Text and most photos by Kasumi Abe)無断転載禁止
【この記事は、Yahoo!ニュース個人のテーマ支援記事です。オーサーが発案した記事テーマについて、一部執筆費用を負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】