『劇場版『鬼滅の刃』無限列車編』を観て仏教とヤンキーを想う
『劇場版『鬼滅の刃』無限列車編』が2020年10月16日に公開され、記録的な初日の興行成績となった。
映画冒頭の風景描写からして実写と見まがう美しさで、映像作品としてさすがのクオリティであり、お館様(産屋敷耀哉)が散っていった鬼殺隊員たちの墓をめぐるオープニングが、ある人物の死というエンディングが対になる物語の構成や、炭治郎、善逸、伊之助のわちゃわちゃぶりなど『鬼滅』ファンなら満足の出来だった。
以下、ネタバレを避けてテーマについて考察していきたい。
映画前半は「居心地の良い夢から目を覚ませ」という話、
映画後半は「永遠なんかない」(いらない)、命を燃やし尽くせ、という話だ。
■『鬼滅の刃』が描く永遠と流転、無限と有限、死と生、夢と現実の対比
『鬼滅の刃』は無限列車編に限らず、全編を通じて、永遠と流転、無限と有限、死と生、夢と現実が対比されていく。
主人公・竈門炭治郎たち鬼殺隊員は後者の価値観を担っている。
永遠や絶対、無限の成長を信じているのは敵である鬼の方だ。人間である鬼殺隊側は容赦なく死んでいく。『鬼滅の刃』の世界に生きる人間には蘇生術は存在しないし、回復役も基本的にいない。
「(頚を斬らない限りは)永遠に死なない鬼」という対照的な存在を置くことで「人生は一度しかない。死んだら終わる」という当たり前だが大半の人間が日常的には意識しないことを強く意識させる。
鬼殺隊に入るためには、呼吸法をマスターしなければならない。呼吸を整えることによって「今この瞬間」に集中し、大きな力を得るという発想は、マインドフルネスなど近年の瞑想中心の仏教(禅)由来のプラクティスとも通じている(もちろん、直接的な参照先は『ジョジョの奇妙な冒険』の波紋だろうが)。
ともあれ、鬼が体現する永遠無限の世界と、すべてが移りゆくなかで今この瞬間に命を燃やす鬼殺隊の対比に「呼吸」というギミックが用いられている(炭治郎は第一話の時点で「人生は移ろってゆく」と諸行無常、万物流転の価値観を受け容れ、そのなかでの生を肯定していた)。
無限列車編のエピソードでは、病気や妻子を失ったなど様々な理由から、現実を見て生きていくのがつらいので居心地の良い夢を見続けたいという登場人物が印象的だ。今ここに集中する、現実を直視することは、多くの人間にとってそれほど簡単でも快いものでもない。夢想に耽るほうがよほどラクだ。
■歩みを止める耽溺はダメだが、生を加速するための幻視は良いという思想
無限列車編は「現実を見ろ」「老いや衰えを、あるいは未熟であることを受け入れて生きろ」という観客にとって酷なことを突きつけている作品だ。
それでも酷薄に感じないのは、そこで家族とのつながり、仲間との縦と横のつながりがあることが強調されているからだ。想いを託せる、継承してくれる人物がいると信じられるから、散ることに迷いがなくなっている。
ここがおもしろい。
「都合のいい世界に耽溺するな。目を覚ませ」という作品なのだが、しかし、一方で『鬼滅の刃』は、炭治郎たちが戦いながら亡霊や幻影、夢を見ることで力に覚醒するという展開が多い作品でもある。
無限列車の乗員を見ても、原理的には、家族や仲間とのつながりや思い出も、人間を浸らせて行動を滞らせるものたりうる。つまりこの作品は、一方で「現実を見ろ」と示唆しながら、他方で、現実に立ち向かうときに参照される幻視がある。
その区別は恣意的だ。
だが、人は理想や夢を持たずに現実だけ見ていても生きられない、という意味では、この矛盾するような観念の同居は、人間の生き方として本質的なものでもある。
つまり、歩みを止めるような夢想への耽溺はダメだが、生を加速し、今この瞬間を生き切るためにする幻視は良い、という思想になっている。
だからヒットした、とか言うつもりはまったくないが、こういう価値観が受け容れられていることは興味深い。これはある意味では現代の仏教に通じるものがある、と同時に、ある種のヤンキー(マンガ)の価値観に近いものでもあるからだ。