藤田菜七子騎手、女性騎手初のJRA通算100勝達成に想う
デビュー時から社会現象に
4月25日、1回福島競馬5日目の第1レース。ダート1150メートルの3歳未勝利戦をシルバージャック(牡3歳、和田正一郎厩舎)が優勝。手綱を取った藤田菜七子騎手(美浦・根本康広厩舎)はこれが女性騎手としては初となるJRA通算100勝目の記念の勝利となった。
1997年8月9日生まれだからまだ22歳。2016年にJRAとしては久しぶりとなる女性ジョッキーとして注目を集める中、デビューした。その可愛らしいルックスもあいまって、たちまちお茶の間の人気者となった。当然、当時はまだ何一つ実績がないにもかかわらずカメラや記者に追いかけられた。彼女の一挙手一投足は競馬面、スポーツ面、スポーツニュースを飛び越し、社会面やワイドショーにまで取り上げられた。そのブームぶりに誰よりも驚いたのは当時まだ18歳だった彼女自身。中学を出て競馬学校に入り、いわば社会経験もほとんどない状態からいきなり大スターなみの扱いを受け、どう対処して良いのか戸惑った事だろう。
しかし、そんな彼女に競馬の神様はほんの少しのプレゼントを用意してくれた。世界中で施行される女性騎手招待レースにたびたび声がかかる事になったのだ。
最初の話はいきなりルーキーイヤーにやってきた。16年8月、イギリスのサンダウンパーク競馬場で行われた国際女性騎手招待競走に招待された。デビュー後、5か月ほどでの海外、それも競馬発祥の地であるイギリスで乗れるチャンスを得たのは、当時、JRAには何年も存在しなかった女性騎手という未開の地を進んだ彼女へのご褒美だったのだと思う。
ところが最初のこの海外遠征は思わぬアクシデントに見舞われる。騎乗予定だった馬はパドックで曳いていた厩務員を引きずるほど激しくイレ込んでいた。挙句、藤田を振り落とすと厩務員をも振り払って放馬。藤田の海外初騎乗は幻に終わってしまうのだった。負けず嫌いの彼女は転んでもただでは起きなかった。悔し涙を流した彼女に、主催者はアブダビでリベンジの機会を与えてくれた。更にその後、マカオから招待された時は日本のナンバー1ジョッキーである武豊と共に騎乗する機会を得た。
怪我を乗り越え100勝達成
それらの経験を糧に徐々に成績を伸ばした彼女に、競馬の神様は更に微笑んだ。19年の3月からは永続的に女性騎手に対する減量制度が開始された。6月に行ったスウェーデンの招待レースでは自身の海外初勝利をマークすると一気に2勝目も記録。ポイントで争われるシリーズの優勝も決めてみせた。
また、10月にはコパノキッキングに騎乗して大井の東京盃(Jpn2)で自身重賞初制覇を飾ると、同馬とのコンビでは12月にはカペラS(G3)を優勝。女性騎手として初となるJRA平地重賞制覇もマークした。
この間、成績も年を追うごとに右肩上がり。デビュー年に6だった勝利数は昨年43まで伸び、武豊をして「本当に上手になった」と言わせるほど成長してみせた。
今春もサウジアラビア、そしてスペインから招待を受けていたのだが、残念ながら2月15日の小倉競馬で落馬して負傷。1ケ月以上に及ぶ休養を余儀なくされたため、海外遠征は実現しなかった。しかし、3月20日に復帰すると、冒頭で記した通り本日4月25日にJRAで通算100回目となる先頭でのゴールを切ってみせた。
現在、JRAの競馬学校には女性の騎手候補生が数名いる。過去にも女性騎手はいたものの、現在の候補生達は藤田が開いた扉をくぐって来た事は疑いようがないだろう。そういう意味でパイオニアともいえる藤田だが、ひとたび馬を下りて見せる“ナナコスマイル”の愛らしさはいかにも二十代の女性という感じ。それが人気の要因の一つなのは確かだろう。しかし、逆に言えば騎乗した際の彼女は“2キロの女性騎手減量”が失礼ではないのか?と思えるほど格好良くなってきた。彼女にとって今回の100勝達成は、今後、予想できるキャリアを思えばほんの序の口だろう。これからも怪我無く活躍し、G1勝利など、女性騎手未踏の地を切り拓いて行ってもらいたい。ちなみに今回100勝を達成した彼女は次のような声明を出した。
「沢山の方々に助けていただき達成する事が出来ました。福島で初勝利を挙げた時は多くのお客さんに祝福してもらいましたが、今回は(新型コロナウイルスのせいで)お客さんのいない中での達成で少し寂しかったです」
彼女が寂しがったのと同じように、この偉業達成を画面越しでしか見られない事に地団太を踏んだファンも日本中にいた事だろう。それでもコロナウイルス禍で沈みがちな世の中に、明るい話題を届けてくれて、喜んでいるファンもまた多くいるはずで、何を隠そうかく言う私もそうである。次なるメモリアル勝利の際は、是非、皆そろって競馬場でお祝い出来る状況が戻っている事を願いたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)