ルール遵守は金融機関の自己保身
金融は、高度に規制された産業ですから、法律以下、膨大かつ複雑な諸ルールの体系が構成されていますが、今や、その遵守は徹底されています。当然といえば当然ですが、その几帳面で厳格な履行状況は驚くべきものでもあります。では、ルール遵守で、金融機能は高度化したのか、顧客の利便性は向上したのか。
国鉄の順法闘争
かつて、日本国有鉄道、略して国鉄、というものがありました。それを分割して民営化したのが、今のJR各社です。国鉄は、その名の通り、国有企業でしたから、公務員と同じように、労働者のストライキ権は否定されていました。にもかかわらず、国鉄の労働組合は、非常に戦闘的であったのです。
ストライキのできない国鉄の労働組合がとった戦術に、順法闘争というのがありました。この奇妙な呼び名は、徹底したルール遵守に基づいています。ルール遵守は、経営者が労働者に求めることですから、その徹底が労働組合の戦術になるなど、本来は、奇怪至極のことといわざるを得ません。
実は、安全運行が最優先される鉄道輸送業ですから当然のこととして、国鉄には、作業手順を定めた膨大な諸ルールがあったのです。順法闘争というのは、そのルールを、徹底的に、杓子定規に、完璧な綿密さで、遵守することにより、作業効率を著しく低下させ、列車の運行を妨害するというものです。
ルール遵守でルールの目的を阻害する、もはや、哲学の難問です。もしかすると、高校生のときに自分が哲学の研究を志した理由の一端は、順法闘争の解き得ない不合理に思いを馳せたことにあったかもしれません。
順法闘争は、本来は望ましいはずのルール遵守の徹底も、ルール遵守自体を目的化すると、ルール制定の背後にある目的に反した帰結を生むことを示しています。このことを敷衍すれば、ルールは、ルールであるが故に遵守されるべきものではなく、ルールの目的に従って遵守されるべきものとなりますが、ならば、実質的にルールの目的に適っているのならば、形式的にルールに違反しても許されるのか、という哲学的な難問を避け得なくなるのです。
無用の些末なルール
もちろん、目的に反したルールが存在していることに、問題の根源があるのです。本当は、ルールを常に見直し、適宜、廃止や改正をすればいいのです。
巨大な国有企業だった国鉄には、不合理、不要、無用、不適切なルールが見直されることなく放置されていて、それが順法闘争に利用されたのかもしれません。ならば、実際には、現場の合理的な判断で、ルールは適当に運用されていたのでしょう。
これは、ルール遵守の不徹底というよりも、ルール改廃の不徹底なのですが、今日の視点からみれば、例えば、何らかの事故があったときなどには、ルール違反の事実を問題視される危険はあったといわざるを得ません。
では、些末なルール違反なら、ルールの根底にある原理原則に忠実な行動がとられている限り、許容してもいいのでしょうか。
確かに、大切なことは、表層的なルール遵守ではなく、ルールの根底にある原理原則が守られることです。それでも、ルール違反を許容することは、社会の秩序と統制の見地から、決して認め得ないことです。そこで、答えは一つ、ルールの体系を、根底の原理原則のほか、少数に絞り込んで、末端のルールを廃止してしまうしかないのです。
この理由は簡単で、根底の原理原則は、不変不易のものですから、見直す必要はなく(というよりも、見直すべきではなく)、そこから直接に導けるようなルールは、頻繁に見直すべき性格のものではないのに対し、末端の細則的なルールは、適宜、実践経験を通じて見直すべきなのに、実際には改廃手続きが追い付かないからです。
金融庁の姿勢
今の金融庁の規制についての考え方は、まさに、こうした方向にあります。金融庁は、ルールの根底を支える原理原則をプリンシプルと呼んでいますが、規制のあり方としては、明確に、ルールからプリンシプルへの転換を志向しているのです。
実際、今年の「金融行政方針」には、「金融行政においては、金融機関等の個々の活動を細かく規制するのではなく、金融機関等の創意工夫を引き出すことで、全体として質の高い金融サービスの実現を図っていくことが有効である」と、はっきり書かれています。
この意味は、顧客の利益の保護は、細かいルールによってではなく、プリンシプルの確立によって、徹底し、サービスの利便性の向上等は、ルールによっては達成し得ないことを前提に、金融機関自身の創意工夫を促すことで実現するということです。
金融庁の方針転換の背景には、従来の金融規制によるルール遵守の徹底には、順法闘争的な弊害があったとの認識もあるでしょう。もちろん、行政の施策は局面に応じて適切になされるのであって、ルール遵守の徹底が必要だった歴史的局面も明らかにあったのです。局面が変われば、金融行政の課題も変わる、ただ、それだけのことです。
しかし、そうはいっても、上に引用した金融庁の方針は、明らかに、ルール遵守の徹底によっては、「質の高い金融サービスの実現」を達成できていないとの認識に基づくものでしょう。更にいえば、ルール遵守の徹底の裏に、順法闘争的な弊害も認めているのかもしれません。つまり、ルール遵守の悪用といっていいような事態の横行です。
順法闘争的なルール遵守の悪用
順法闘争の順法については、過剰なルール遵守の徹底により作業効率を下げて、業務を妨害するという面だけでなく、法令で禁止されているストライキを合法的に実行するという面もあったわけです。つまり、実質的に違法な事態を順法化していたのです。
金融について考えると、例えば、投資信託の販売の実態が代表例です。これまで、多くの金融機関で、金融庁の目からは、また私を含めて業界の多くの人の目からも、過度に投機的に思える投資信託を、真の顧客ニーズとは乖離していると思われるなかで、法外な手数料等を課しつつ、大量に販売してきた実態がありますが、その販売行為は、ほぼ完璧なルール遵守のもとでなされてきたのです。
つまり、顧客の真の利益に反し、不適切としかいいようのない行為も、ルール遵守の徹底によって、責任を問われる可能性のないものとして、正当化されてしまったのです。この規制の無力というよりも、規制の弊害を示す事実の発見は、金融庁の行政方針の転換にとって、非常に重要な役割を演じたと思われます。
金融機関の自己正当化
要は、ルール遵守は、金融機関の自己正当化のために、利用されてしまったのですが、金融機関だけを問題にするのは不公平で、ルール遵守が自己正当化や免責要件として利用されるのは、今日、広くみられる現象です。
例えば、飲酒可能年齢を規制することは、国民の厚生に関する高度な政策判断ですが、販売時の年齢確認というルールは、現実の機能としては、国民の利益のためではなく、販売店の免責要件の確保のためです。
しかし、金融については、過去の経緯から、余りにも深くルール遵守の徹底が浸透した結果、その弊害も非常に深刻化しているといえます。特に、投資信託の販売で実際にみられるように、形式的にルールさえ遵守していれば、実質的に不適切なことも許容されるという道徳意識の頽廃は、憂慮すべきものです。
また、金融庁が次々と作る新しいルールに対して、いかに早く効率的に遵守態勢を構築するかという受け身の行動様式が習性化した結果、金融機関の能動的で自律的な思考能力が失われてしまったことは、より深刻な事態と思えます。
ルール遵守の表層的定着が完璧になる半面、ルールの目的やルールを支えるプリンシプルについて深く考える能力はなくなったということです。
ルールに還元する発想の貧困
もっと問題なのは、金融機関におけるルール遵守の習性化は、何でもルール化しようとする特異な行動様式を生み出したことです。
金融庁は、ルールを作ることを目的とした機関ではなく、ルール策定は、政策課題の実現のための道具にすぎません。金融庁は、金融機関に対して、様々な課題を提示し、その解決を求めてきたのであって、ルールの導入は、その一環としての役割を演じてきただけなのです。
ところが、金融機関は、ルール遵守から発想する習性となっているので、金融庁が示す経営課題を本質的に考え抜くのではなく、全て簡単に実行できるルールに還元しようとします。例えば、ある施策に対しては、金融検査対応として、最低限、これだけのことをやっておけば十分であろうと考え、その最低限のことを内部ルール化して遵守態勢を作り、それで課題を達成した気分になるというようなことです。
例えば、金融庁がフィデューシャリー・デューティーという新奇なことをいうと、最低限、何をやっておくと、フィデューシャリー・デューティーを果たしたことになるのか、その最低限のことの履行徹底を、どうルール化するのか、というふうに反応してしまうのです。
ミニマムスタンダードの発想
ルール遵守の弊害は、要約すれば、最低限のことをしておけば責任を問われないという道徳意識の頽廃、最低限のことしかできない能力の貧困、最低限のことしかしようとしない怠慢の横行、この三点に尽きます。
金融庁は、この最低限のことをミニマムスタンダードと呼ぶのですが、金融機関も数が多いとミニマムスタンダードすら確実に履行できない論外に低次元なものもいて、そういうものに対しては、顧客の利益保護のために、ミニマムスタンダードの徹底を図る努力をせざるを得ないのです。
しかし、金融界の中核は、とうの昔にミニマムスタンダードを達成しています。ただし、ミニマムスタンダードの達成により安全圏を確保し、そこに安住していること、つまり、もはや、ミニマムスタンダードの達成は、顧客の利益のためではなく、金融機関自身の自己都合の保身手段になっていること、それが問題なのです。
故に、顧客の視点にたったとき、金融庁の課題は、ミニマムスタンダードの上を目指す経営努力を促すこと、即ち、金融庁の用語でいうベストプラクティスの追求を促すことになるのです。いうまでもなく、ベストプラクティスの追求は、ルールによっては実現できず、各金融機関がプリンシプルのもとで創意工夫することによってしか実現できません。
ルール遵守の徹底によるミニマムスタンダードの確立は、もはや顧客の視点を喪失しています。ここで何よりも重要なことは、改めて顧客の視点に回帰することです。顧客の視点で創意工夫することにより、金融の社会的付加価値を創出すること、それがベストプラクティスの追求の意味です。
ミニマムとベストの差
先ほどのフィデューシャリー・デューティーは、ルールで達成するミニマムスタンダードはなくて、その遥か上を目指すベストプラクティスの追求なのです。
フィデューシャリー・デューティーは、例えば、投資信託の販売について適用するとき、ルール遵守の徹底を前提にしたうえで、真の顧客ニーズを把握し、顧客に対して最適な商品を提供するために、ベストを尽くす義務となります。
ミニマムとベストの間には、当然に、大きな開きがあります。故に、フィデューシャリー・デューティーの徹底のためには、最低限のことをしておけば責任を問われないという道徳意識の頽廃、最低限のことしかできない能力の貧困、最低限のことしかしようとしない怠慢の横行、その全てを完全に超克しなければならないのです。