中学校教員はなぜ「全日本卓球」の審判員となったのか 東日本大震災を乗り越えて
24日から行われている国内最高権威の卓球大会「全日本卓球」は、主管の東京都卓球連盟をはじめとする多くのスタッフに支えられている。中でも最多の人員が割かれるのが1試合に2名が必要となる審判員だ。大会前半は34ものコートを交代で行うため、日に140名もの審判員が必要となり、7日間で延べ650名にもなる。日本にはプロの審判員などいないから、それぞれに本業を持つ「公認審判員」たちが、数千円の日当以外は交通費も宿泊費も出ないのに全国から集まる。理由はもちろん「審判をしたいから」だ。
容易に想像がつくことだと思うが、審判をしたいという卓球愛好者は多くはない。地方の大会などでは審判員を手配できないため、1回戦はチームメイトが審判をし、2回戦以降は前の試合で負けた選手が審判をすることが多い。こうした制度を卓球界では「敗者審判」あるいは俗に「負け審」などと呼ぶ。ほとんどの選手は審判をやりたくないため、中学生など「審判をしたくないから頑張った」などと口走ったりもする。
ほとんどの卓球人にとって審判とはそうしたものであるにもかかわらず、本業を休んで身銭を切ってまで審判をしに来る誇り高き人々が全日本卓球の審判員たちなのである。
今野啓もそのひとりだ。仙台市の中学校で理科の教鞭を執る今野は、毎年この時期になると、ここぞとばかりに5日連続の有給休暇を取って審判をしにやってくる。100%趣味なので、学校からの補助や公休扱いなどあるわけもない。
いったい何が彼を突き動かしているのか、どうしてこうなってしまったのか、その半生はどのようなものだったのだろうか。
今野は宮城県色麻町に米作り兼業農家の長男として生まれた。中学1年から卓球を始め、「卓球命」の中学時代を送ったが、最後の大会は団体戦で4校だけの地区予選で負けて午前中いっぱい号泣し、午後の個人戦は見たこともないフサフサしたラバー(今野は「粒高ラバー」すら知らなかった)を貼った1年生に負けて終わった。進学した高校までは片道18キロの自転車通だったため部活を断念し、大学で卓球を再開したが、そこで今野は初めて自分がとんでもなく下手であることを知る。3年生のとき、化学の勉強のため1年間イギリスに留学し、現地の学生に勝って強くなったと自信をつけたが、帰ってみるとさらに下手になっていた。その上イップスにもなり、教員になったころには卓球熱はすっかり冷め、どうせなら知っている競技をという程度の考えで卓球部の顧問となった。さすがに中学生には負けないだろうと思って胸をかすつもりで試合をしたら負けた。ここで何かのスイッチが入って熱狂的指導者となり、研究心と練習量で県でベスト4のチームを育て上げた。
一方で今野は、顧問になると同時に県中体連の委員にさせられて大会運営も手伝わされていた。新米教員にありがちな境遇だ。しかしやっているうちに、大会運営こそが大会の感動とドラマを演出する真の主役であることを発見してしまった。
中学時代の夢は「総理大臣」「東北放送のアナウンサー」「中学校の先生」で、高校時代に生徒会長に立候補したときには対立候補の演目「ケツワリバシ」「チチクリマンボウ」をぶっちぎりで破る下ネタ(生徒会長に立候補するのになぜネタが必要なのか謎だが)で当選したほどだったから、人に説明したり、大勢の人をまとめたりすることが大好きだったのだ。
大会運営には各学校の顧問やコーチからの苦情や批判がつきものだが、生来のM的資質からか、次第にそれらさえもが快感となって熱を入れているうちに、いつしか今野は実務のトップとなってしまった(そんなことを喜んでやる者など他にいないのだから当然だろう)。
こうして大会運営にもすっかり慣れていた2011年3月11日、東北地方一帯を東日本大震災が襲った。今野が勤務していた学校は内陸だったが、それでも家族が亡くなった生徒が何人もいた。
4月上旬になると、中総体の全競技の県大会中止の提案をする会議案内がFAXで流れてきた。多くの学校の体育館は壊れるか避難所になっていたし、教員たちは補習授業に追われていた。引っ越しをした生徒は山のようにいる。現場は混乱の極みだった。常識的に考えてスポーツ、ましてや大会どころではないのは明らかだった。
しかし、この未曽有の災害に際して今野は、自分がすべきこと、できることは何かと考えたとき、それは県大会を開くことだと思った。
県大会中止の噂はあっという間に広がった。「頑張ってきた生徒や指導者が大勢いる。県大会をやってほしい」という声が聞こえてきた。「大会をやらないなら家に火をつけてやる」と酒に酔って電話をかけてきた指導者もいた。「絶対にやる。やらなかったら火をつけに来い!」と自宅の住所を教えた。とはいえ何の確証もなかったから、東北各県の委員長たちに電話をし「宮城は東北大会に出られないかもしれない」と泣き言を言った。
「何言ってるの。同じくらい被災した岩手も県大会やるし東北大会まで開催するんだぞ。宮城が出ないなら東北大会はやらないぞ!」
そう叱咤された。スポーツどころではない状況の中、熱い卓球バカたちがそれぞれの立場でそれぞれのやり方で戦っていた。
こうして迎えた4月下旬。県中体連の役員や各競技の委員長が一堂に会した。
副会長が県大会中止の議案書を読み上げ終わり「どなたか意見はありますか?」と言うやいなや、今野は決死の覚悟で手を挙げた。
「大きな会場がなかったら小さな会場で分離開催すればできます。予選ができなかった地区は全校参加にすればいいんです。卓球なら1回戦の前にゼロ回戦を設けても3日で終わります」
そう言ってタイムテーブルのシミュレーション結果を示した。そして最後に言った。
「生徒たちは津波で何もかも流されたんです。そのうえ県大会まで流すつもりですか。復興復興と言いながら、県大会もできなくて何が復興ですか。県大会をやってこそ復興なんじゃないんですか!」
言い終わると拍手が起きた。そして、半ば開催を諦めていた各競技の委員長たちも同調し始め、最後には満場一致で開催が決定した。
「どの競技の委員長たちだってみんなやりたいんです。中止にしたい委員長なんていません」
こうして県大会の開催が決まった。使える体育館を探し、ラケットもフォームも流された学校のため、藁をもつかむ思いで卓球メーカーに電話をすると、無償の支援を約束してくれた。そのときの恩を今野は一生忘れない。日中は校務に追われていたため、メーカーから届けられ用具を深夜に仕分けし(事前に被災校に必要数、サイズなどの希望を募っていた)、梱包して夜中までやっている郵便局に持ち込んで発送した。1日でも早く届けたかったからだ。
多くの人たちに助けられ、周りを巻き込みながらやり遂げた県大会では、男子団体で津波の被害が大きかった石巻市の河南西中が優勝する感動的な結末まで待っていた。
2015年には全国中学校大会が宮城県で開催され、今野はそのために1年前から授業を持たずにその準備に専念した(全中は各都道府県の教育委員会が主催するため、教員を増員して準備に充てる)。それでも大会の1週間前からは睡眠時間が1時間を切る激務だったが、無事にその大役を成し遂げた。中学校の大会運営としては頂点を迎えた形だった。
大会運営をしていく中で、今野は「公認審判員」の資格を取っていた。初めは古参の指導者や顧問に舐められないよう箔をつけるためだったが、「上級公認審判員」とステップアップの勉強をする過程で、次第に審判の奥深い世界に魅せられていくようになる。そしてついには、審判は単に勝敗を判断しているだけではない、試合を作っているのは審判だということに、またもや気がついてしまった。
こうして今野は「国際審判員」の資格を取り、2014年からは世界選手権でもジャッジを振るうようになる。「大学時代に留学したのも、今にして思えば英会話を身につけて国際審判員をやれってことだったんだと思います」と鼻息も荒く語る。その勢いで、今期からは国際卓球連盟の14名からなる「審判委員会」のメンバーに入り、卓球審判界(そんなものがあればの話だが)での存在感は増すばかりだ。
選手、指導者、大会運営と経験し、東日本大震災をも乗り越えた末に、辿りついた審判員の道。目標は、五輪や世界選手権の決勝で主審を務めることだという。夢は広がるばかりだ。
中学校の仕事はどうなっているのだろうか。
3月14日追記
この記事を発表した後の全日本の最終日、今野は男子シングルス決勝の主審を務めた。学校ではクラス担任を持ち、授業も校務も他の先生方より多くこなすスーパー先生である。
=================
今野啓(こんの けい)
1975年宮城県生まれ
宮城県古川高等学校卒
宮城教育大学修士課程修了
公益財団法人 日本卓球協会
公認レフェリー 上級公認審判員
全国中学校卓球大会 審判長
中学生普及委員会 副委員長
宮城県卓球協会
副理事長 兼 事務局次長
競技運営委員会委員長