「ユニフォーム着用女子マネージャーのグラウンド入りを拒否」甲子園の高校野球の伝統の本質は性差別か?
高校野球の甲子園練習で、女子マネージャーがユニフォームを着用しグラウンドに立ち関係者から制止された件が、波紋を呼んでいる。
このネット上の反響を見て気になることがある。規則や運用の理不尽さや矛盾を批難するものがほとんどだ。もっとストレートに「性差別が行われている」と糾弾して良いと思う。
また、本件を報道するメディアも事実関係やネット上の反応を報じているだけで、差別行為を問題視する論調の記事が見当たらないのはどうしたことか。ジャーナリズムの義務と存在意義を放棄しているとも言えよう。
ここで私事を述べさせていただく。
ぼくが30数年前に卒業した高校は男子校だった。「だった」と記したのは、現在は共学になっているからだ。もともと藩校だったこともあり、在校生やOBは結構母校を誇りに思っていた。そして、男だけのバンカラな校風もアイデンティティのひとつだった。ぼくの在学中、「男だけ」にプライドを持つ先生たちは「毎年数名の女子から入学願書が届くが丁重にお断りしている」と嬉しそうに語っていた。野球部の甲子園出場が決まった時には近隣の女子高が応援協力を申し出てくれたのだが、「男子校としての校風を守るためご辞退申し上げた」というのが、美談として語り継がれていた。そんな学校だった。そして、このぼくもそんな母校に何の疑問も持たなかった。
わが母校も、卒業後20数年後には共学になった。それが時代の趨勢であり、背景には少子化もあったようだ。でもその頃には、共学化を嘆く気はなかった。ぼくには娘しかいないこともあり、彼女のためにも女性だからといって不利益をこうむる世の中では無くなって欲しいと、心の底から思うようになっていたからだ。
かつては、「男だけのバンカラ世界」こそが母校の伝統の本質だと思っていたが、良く考えるとそれは時代錯誤な性差別に他ならないと、四十路になってようやく気付いたのだ。どんな愛すべき校風であっても、差別を前提に成り立っているものに何の価値もないことをようやく理解したのだ。
今年の四月、帰郷したぼくは20数年ぶりに母校を訪れた。当然だがぼくの在学中にはなかった女子トイレもあちこちに設置されていた。日曜日だったが、クラブ活動に精を出す後輩達がそれぞれの競技で汗を流していた。広い敷地内をぶらぶら歩くと、部活の後輩達が男女に関係なくぼくの姿を見かけると遠くからでも「こんちには~」と声を掛けてくれる。共学になっても、みんな礼儀正しく、文武両道の伝統は少しも損なわれていなかった。何も変わっていなかったのだ。母校の伝統の本質は「男だけ」にあったのではないことが理解できて、卒業生であることが一層誇らしく思え、ますます母校が好きなった。
高野連のお歴々も、ひょっとしたら「グラウンドは男だけの神聖な場所」という思いがあって、それを守らねば高校野球の高校野球たる本質を守りぬけないと思っているのかも知れない。しかし、高校野球の本質が普遍的に価値あるものであるなら、性差別を撤廃するというごく当然のことを行ったとしてもそれが失われることはないはずだ。