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陸上自衛隊の部隊がXで「大東亜戦争」と表現した背景~「商業右翼」が自衛隊教育に影響か?~

古谷経衡作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長
「大東亜戦争」1周年を記念した切手(1942年、引用=日本郵便趣味協会)

・硫黄島合同慰霊祭の文脈で陸自連隊が「大東亜戦争」表記  

 陸上自衛隊第1師団隷下の第32普通科連隊(さいたま市)が、その公式X(旧ツイッター)にて、「大東亜戦争」と表現したことが物議をかもしている。同投稿は4月5日になされ、同8日には削除された。防衛省は「誤解を招いた」などと釈明したが、4月9日には中国外務省副報道官が批判するなど、その内外の余波は収まったとは言えない。

 当然のこと「大東亜戦争」という呼称は、太平洋戦争を「アジア解放のための聖戦」と位置付けた戦中の政府によって喧伝されたもので、侵略の肯定や戦争の美化とも受け取られかねないことから、現在の政府は「大東亜戦争」の呼称を用いていない。

第32普通科連隊が投稿したX(筆者キャプチャのもの)。現在は削除されている
第32普通科連隊が投稿したX(筆者キャプチャのもの)。現在は削除されている

 政府の統制下にある陸上自衛隊の、まして首都・東京近傍に位置する実力部隊の公式Xで、政府見解とは真逆の「大東亜戦争」という呼称を用いることは、この一点においていささか問題である。さらにこの投稿は硫黄島での日米合同慰霊祭を紹介する文脈の中で登場するが、「大東亜戦争」というスローガンのもと、当時さまざまな戦意高揚や報道の中で「鬼畜米英」「米鬼撃砕」などといった掛け声が併用されたことから、米軍が同席する場をこのように表現することは、日米友好に水を差すのではないか、という批判もある。

 なぜ陸自の部隊はXで「大東亜戦争」という表現を用いたのか。一般的な文章構成上、”いわゆる”を意味して価値観を相対化させる「」や『』などを使っておらずそのまま表記したことからも、この表現の使用に際しては、その言葉が持つ意味の重要性をよく斟酌していなかったことも読み取れる。つまりは「大東亜戦争」という単語を”いわゆる”という注釈をつけずに使用することは、先の戦争に対する無批判や、肯定の意味を含んでいると取られても仕方がない、と言わなければならない。この背景には何があるのか。

・「商業右翼」による自衛隊教育の危機を昨年、現役防大教授が告発

 2023年6月に、防衛大学校教授の等松春夫(とうまつはるお)氏が、「危機に瀕する防衛大学校の教育」と題した論文を公開した。公開当時、現役防大教授の告発ともいうべきこの文章は大きな反響を呼んだが、重要部分を以下に引用する。

外部から来た論客が教室で、政治的に偏向した「講演」を学生たちに行い、招聘した「咎人」自衛官はよいことをしたと考え、くだんの論客は「防衛大学校で講演した」ことで自分に箔を付ける。そうした行為がまかり通っているのです。私自身、そのような場に遭遇したことが何度かあり、様々な機会に警告を発してきましたが、改まる様子がありません。憂うべきことに、この種の「商業右翼」を講師として学外から招く悪習は、防大のみならず、陸海空の幹部候補生学校や幹部学校(上中幹部を養成する自衛隊の教育機関)にまではびこっています

*強調筆者

 とあり、さらにこの部分には以下の注がある。

自衛隊の諸学校が「ネトウヨ」を招き入れているという問題については、世界30か国以上で展開されているデジタル・ジャーナリズム媒体VICEが連載記事の形ですでに報じている。(https://www.vice.com/ja/article/xwk8ea/crisis-of-self-defence-forces-01)。同記事で触れられている、著名な外国人ジャーナリストによる「大東亜戦争肯定論」講演の現場は筆者も目撃した。このジャーナリストを招いたのは、海自3佐の防衛学教育群の准教授であった。同記事ではほかに、明治天皇の玄孫を売り物にする評論家の竹田恒泰氏、「軍事漫談家」を称する井上和彦氏ら多数の「ネトウヨ」が自衛隊の諸学校に入り込んでいるとし、竹田氏の弟子筋にあたるという女性タレント(吉木誉絵氏)が海上自衛隊幹部学校の客員研究員の立場を得たことを問題視している。なお、この記事には書かれていないが、2021年3月の防大の卒業式に國分良成・学校長(当時)が「国際政治学者」を名乗る三浦瑠麗氏を招き、来賓代表として学生たちに祝辞を述べさせたのは、筆者と多くの教官にとり衝撃的な出来事であった。

*強調筆者、括弧内URLはママ

 つまり等松氏は、自衛隊が外部から招いた講師である「商業右翼」が講演等でぶつ「大東亜戦争肯定論」が幹部自衛官らに悪影響を与えていると推測しているのだ。

 私もこの推論に大きく首肯する。今回の陸自第32連隊のX担当者が、等松氏いわく「商業右翼」にどの程度の影響を受けたか定かではないが、繰り返すように価値判断を留保する「」や『』を用いないで「大東亜戦争」という単語をストレートに短文の中で用いることは、こうした「大東亜戦争肯定論」をそのままの意味で受け取っている可能性を否定はできないだろう。

 もしそうであるならば「商業右翼」による影響が今回の投稿の背景にあることは大いに考えられるし、またその危険性は昨年から等松氏によって大きく指摘されてきたことで、換言すれば「当然の結果」ということもできる。

 あの戦争を肯定的にとらえる動きは、戦後の保守界隈の中で盛んに展開されてきた。南京事件の否定や、従軍慰安婦の存在否定、朝鮮半島の植民地政策に対する肯定論(そもそも朝鮮は植民地ではない、という奇説)などは、保守界隈の中でお家芸とも呼べる分野であり、これ自体は特段珍しいことではない。民間の分野にあっては、あの戦争を肯定的にとらえることは言論の自由である。

 しかし問題なのは、文民統制の中にある自衛隊が公式のSNSの中で、戦後五十年談話や七十年談話において「戦争の反省」を謳った河野・村山談話などを踏襲してきた政府公式見解と真逆の意見を披瀝していると疑われることである。

・自衛隊で講演すると「箔がつく」

 さて、私が等松氏の論文で特に注目したのが、最初の強調部の、

外部から来た論客が教室で、政治的に偏向した「講演」を学生たちに行い(略)くだんの論客は「防衛大学校で講演した」ことで自分に箔を付ける。そうした行為がまかり通っているのです。

 という部分だ。論客や識者が外部の団体に呼ばれて講演する際、その団体の性質に合わせて話者は講演の内容を微妙に「調整」したりもする。たとえばタクシー業界の講演ではライドシェアを批判的にとらえるし、電力業界の講演では原発再稼働に対して微温的に肯定的なことを言う、などである。これは変節や風見鶏ではなく、「せっかく講演料を払って呼んでくれるのだから、聴衆に受けの良いことを言いたい」という人間心理であり、私はそれ自体が悪いことだとは思わない。講演会における論客は、ある意味、その時だけの講談師になるのであり、その話芸が試される。

 そして一般的には当人にとって講演に呼んでもらう、ということは名誉なことである。それが公的な機関や団体ではなおさらというところであろう。では等松氏いわく「商業右翼」における自衛隊での講演とはどのようなステータスを持つものなのか。

・保守界隈における自衛隊の「価値」とは

2022年の富士総火演
2022年の富士総火演写真:代表撮影/ロイター/アフロ


「商業右翼」が保守界隈に瀰漫するとして、この界隈における自衛隊の存在は極めて神聖視されている。自衛隊は我が国を護る唯一の実力部隊であり、その職責は尊く、加えて災害派遣などでの無私の働きぶりは尊崇に値する―。これは私も同意するところである。

 よってその自衛隊教育での最高府である防衛大学校などで講演することは、名誉この上ないことであり、また等松氏が言うようにその名誉を引用して「箔をつける」行為があることは否定できない。防大に何らか関与したというだけでそれはもうステータスには違いない。防大を卒業して陸海空の幹部になった元自衛官が、引退後に保守界隈の論客になることも珍しいことではない。元航空幕僚長の田母神俊雄氏が、一時期保守界隈の寵児になったことはその筆頭例である。

 しかしながら実際は、防大や自衛隊関係の学校や団体などで講演を行うことができる、つまり招聘されるクラスの論客は限られている。このクラスになるとすでに招聘されている段階で、保守界隈の中で相当な(少なくとも中堅上位クラス以上の)地位を築いていることが多く、結果的には彼らの評判に多少のバフをつける、という程度であり、無名の人士が一発逆転的に箔がつけられる、という程度までにはならない。

・保守論客が「予備自衛官」の肩書をフル活用

 一番多いのが予備自衛官の肩書を「利用」することである。予備自衛官は一般人からの公募が多く、年齢制限のほかに技能のスキルが問われる場合もあるが、自衛官に正式任用されるよりもはるかにハードルは低い。この予備自衛官の「なりやすさ」を引用して、肩書に「予備自衛官」とか「元予備自衛官」と記入し、「防衛問題のスペシャリストである」などと宣伝活動を行い、民間団体などで講演や執筆活動を精力的に行う論客がいることの方が、私の経験上圧倒的に多い。彼らが現役の自衛官と比べてどの程度「防衛問題のスペシャリスト」であるかどうかは個人差があるが、少なくとも等松氏の表現を用いれば「箔をつける」ことになる。

 保守界隈は高齢層を頂点とした旧態依然のヒエラルキー構造であり、それがゆえに比較的若かったり、後発で界隈に入ってきた論客にとって、このような「予備自衛官」という肩書は強力な武器になる場合が多い。もちろん予備自衛官になることは悪いことではないし、それを個人の活動の中で紹介することも悪手とは言えない。

 しかし、こうした保守界隈側からの「自衛隊を利用する」という発想の根幹にあるのは、とりもなおさず自衛隊側の一部にこうした需要が旺盛にあるという事実と表裏一体である。講演会で話者が、会場の聴衆に受けたいという人情で、その団体の性質に見合った内容に話を「調整」するのとおなじように、会場の聴衆はそういったたぐいの話を聞きたいと望んでいるのである。最大の問題はここである。

 自衛隊は旧軍否定の性質が書類上は強いが、自衛隊発足の歴史的経緯を鑑みれば、自衛隊は旧軍関係者の強い関与と米軍の指導の下、発展してきた。その実態は旧軍の性質や因習を完全に、身体的なレベルまで徹底して否定しているとは言い難いのではないか。

・今も残る旧軍体質か?

 だからこそ、戦中・戦前は当たり前だった「ビンタ」「しごき」のような凄惨な軍隊内での体罰や、非科学的な「軍人勅諭」の精神性は、現在でも「隊内でのいじめ」などとなって現れているのではないか。女性自衛官が増加している現在、隊内での性暴力を告発した五ノ井里奈氏の事例が象徴するように、旧軍の悪癖はまだ隊内に色濃く残存しているのではないか。そうだとしたらその延長線上に「大東亜戦争肯定論」があったとしても何ら驚くべきことではない。陸自のXでの投稿問題は、起こるべくして起こったのである。

 旧軍を肯定するのは自由だ。私も旧海軍の軍船にロマンを感じるクチである(最も好きな航空母艦は悲劇の空母「信濃」である)。しかし大日本帝国陸海軍は、無辜の民間人数十万余の犠牲を防ぐことができず、米英の前に完膚なきまでに敗北した敗軍なのである。

 勝った軍隊であるなら百歩譲ってともかく、あれほど無残に負けた軍隊が遂行したみじめな戦争を「大東亜戦争」と呼称することは、私にはできない。(了)

作家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長

1982年北海道札幌市生まれ。作家/文筆家/評論家/一般社団法人 令和政治社会問題研究所所長。一般社団法人 日本ペンクラブ正会員。立命館大学文学部史学科卒。テレビ・ラジオ出演など多数。主な著書に『シニア右翼―日本の中高年はなぜ右傾化するのか』(中央公論新社)、『愛国商売』(小学館)、『日本型リア充の研究』(自由国民社)、『女政治家の通信簿』(小学館)、『日本を蝕む極論の正体』(新潮社)、『意識高い系の研究』(文藝春秋)、『左翼も右翼もウソばかり』(新潮社)、『ネット右翼の終わり』(晶文社)、『欲望のすすめ』(ベスト新書)、『若者は本当に右傾化しているのか』(アスペクト)等多数。

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