豊島将之名人(30)大逃避行で猛追振り切り相手陣にトライ 名人戦第3局、渡辺明三冠(36)に勝利
6月25日・26日。東京・将棋会館において第78期名人戦七番勝負第3局▲豊島将之名人(30歳)-△渡辺明三冠(36歳)戦がおこなわれました。
持ち時間は各9時間。25日9時に始まった対局は26日21時22分に終了。結果は145手で豊島名人の勝ちとなりました。
七番勝負は渡辺挑戦者1勝の後、豊島名人の2勝となりました。
第4局は7月27日・28日、東京都文京区・ホテル椿山荘東京でおこなわれます。
まずは名人が大きくリード
後手番の渡辺挑戦者は角筋を止め、現在流行中の角換わりにはならず、定跡形からはずれた相居飛車の戦いとなりました。
23手目。豊島名人は早くも▲4五歩とぶつけて動いていきます。
豊島「ちょっとわからなかったですけど、先手の方が玉が囲えているので、早めに動いてどうかなと」
渡辺「作戦だったんですけど▲4五歩仕掛けられて。そのあと(4手後に)▲5六歩突かれる構想が見えてなくて、そこでもう、しびれた感じになっちゃいましたね。▲5六歩突かれてもう指す手がなくなっちゃったんで、本譜は自爆気味なんですけれど・・・(苦笑)。かなり早い段階でまずい感じにしてしまったという感じでやってました」
名人が機敏に動き、さらに挑戦者の無理気味の動きまでとがめて、1日目の段階で形勢に大きく差がつきました。
挑戦者はどうバランスを保ってついていくか。本当に難しいところで、42手目を封じることになりました。
豊島「封じ手のあたりは少し指せるかと思っていて・・・」
両対局者は将棋会館から近いホテルに止まりました。そのまたすぐ近くの神宮球場ではヤクルトスワローズと阪神タイガースのナイトゲームがおこなわれました。結果は3-1でスワローズの勝ち。スワローズファンの渡辺挑戦者にとっては、少しいいニュースとなったでしょうか。
将棋関係者やスワローズの選手がよく訪れ、よく出前を頼んでいた「みろく庵」は2019年に閉店しました。
2日目朝。立会人の塚田泰明九段が封筒をはさみで切り、封じ手用紙を取り出します。
塚田「封じ手は△4二玉です」
8時57分。その声にしたがって渡辺挑戦者が玉を一つ上がります。本命と見られていた一手でした。
細かいところですが、定刻前に封じ手が開かれると、そのほんのわずかの間、相手は消費時間なしで考えることができます。もっとも、この玉上がりは豊島名人も予期していたところでしょう。
塚田「定刻9時です。対局を再開してください」
両対局者が一礼して、2日目の対局が始まりました。
報道陣としては、ここで豊島名人が何か一手を指してもらえると、シャッターチャンスでうれしいところ。しかし名人は3分経っても動く気配はなく、報道陣は退出となりました。
名人は10分ほど時間を使って、じっと金を上がり、自陣を整備しました。昨日の最終手に引き続き、角筋を通して決めに行く順も見えるところを、じっと自重しました。
渡辺挑戦者はもう一つ玉を移動させます。安住の地ではなさそうですが、ともかくも囲いの中には入りました。
渡辺「(封じ手以後は)基本的にはダメかなと思ったんですが(苦笑)。1回チャンスがあるかないか、という感じですかね」
そうしたのち、豊島名人は満を持して、いよいよ決戦に出ました。角を交換し、すぐに角を自陣に打ち据えます。歩がはがれて上部が薄くなっている渡辺城をにらみ、形勢はやはり名人がリードをしています。
渡辺「いやあ、まあ、キツかったですね、攻めが・・・(苦笑)」
渡辺挑戦者は豊島陣に手裏剣の歩を打ち捨て、アヤをつけます。
12時20分頃、盤上に豊島名人の手が伸びて、守備の要である銀を上がって、渡辺挑戦者の歩を取ります。朝に比べると、形勢は少し詰まったのではないか。ともかくも、2日目午前中に終わるようなことはなくなりました。
豊島「2日目の昼休のあたりは、けっこう難しそうになってしまって・・・。なんかいやみがついてしまったので」
昼食は両対局者とも昨日と同様、豊島名人は鳩やぐら、渡辺挑戦者は千寿司からの出前でした。
今からちょうど3年前の2017年6月26日。この日は藤井聡太四段(現七段)がデビュー以来無敗で将棋界新記録となる29連勝を達成した日でした。
藤井四段が昼食に頼んだのは、みろく庵の豚キムチうどん。その時、出前で運ばれてくる写真が、2017年の東京写真記者協会賞に選ばれています。
あれから3年後の6月。藤井七段は快進撃を続け、ついに棋聖、王位のタイトルを挑戦するに至りました。
そうした中でこの日夕方、ちょっと信じられない、ひどいニュースが伝えられてきました。
犯人の卑劣さに、憤りを覚えるばかりです。一日も早く事件が解決するよう望みます。
猛然と追い込む挑戦者
13時30分。対局が再開されました。
銀交換の過程で豊島名人が打った角は中段に出て、渡辺玉への王手となります。玉を逃げた手に対しては(61手目)▲6六角と元の位置に引き、これがまた渡辺玉をにらむ手になっています。
渡辺「じっと▲6六角と引かれる手が見えてなかったんで・・・。うーん、なんかそこで完全に長考になってもう・・・そこの長考のところははっきりダメになったかと思いました。角引きまでは、まあまあわるいんでしょうけど、はっきりはしてないかなと思ったんですけど、ちょっと単に角を引かれて、はっきり困ったという長考でした、そこは」
苦吟1時間4分。62手目、渡辺挑戦者はじっと玉頭の歩を取り込んで、相手にボールを渡しました。
形勢は再び、豊島名人よしがはっきりしてきたのではないか。そう思われたところから、渡辺挑戦者は手段を尽くして勝負に出ます。
渡辺挑戦者は飛車取りを逃げず、角金金銀が利く相手陣の焦点に金取りで歩を打ちます。
豊島「(▲6六角と)引いた手は感触はよかったですけど(64手目)△5七歩打たれてよくわからなかってしまって」
名人は1時間3分の長考で金をまっすぐ上がりながら歩を取りました。
渡辺「どう応じられてもという感じだったんですけれど▲同銀ならちょっと粘れるかなっていう感じで。▲同金(直)で強く決めに来られたんで・・・」
「早く終わりそう」
タイトル戦でそうした予想がされると、だいたいの場合ははずれるようです。
70手目。渡辺挑戦者は守りの金を取らせる代償に、△5四飛と遊んでいた飛車を中央に出してはたらかせます。盤上には少しずつ、怪しい気配が漂ってきました。
渡辺「負けなんでしょうけど、案外、ちょっと粘れそうというか、そういう感じかなっていう」
残り時間は豊島名人1時間28分。渡辺挑戦者1時間30分。
ここで豊島名人の手が止まりました。ABEMAでは行方尚史九段と阿部光瑠六段が解説を担当しています。
行方「豊島名人の胸中いかに。まだ残している(リードを保っている)と思っているのか。もうリードを吐き出したという感じなのか」
盤上を見つめていた豊島名人。ふっと顔をあげ、数秒ほど、渡辺挑戦者の顔を見つめました。
行方「いま渡辺さんの方をにらみましたね。ガン飛ばしましたね(笑)」
阿部「けっこう豊島先生は相手の目を見てくるタイプで。けっこう表情見てます」
行方「感想戦の時はよくこっちの方を正面から見据えてくるな、こっちの目を見てしゃべってくるな、という印象があったんですけど、対局中から意外と相手を見てる、観察してるのか。それによって何か感じてるのか」
阿部「仕草とかで様子を見てるのかもしれないですね」
行方「そうか、こんなポーカーフェイスに見えて、いろいろ観察してるんですね」
局後、豊島名人は次のように語っています。
豊島「金得になるので、なんとかできないかなと思ったんですけど。そんなにはっきりさせる手がわからないまま、行ってしまったと」
71手目。豊島名人は玉頭に王手で飛車を走るか。それとも単に金を取るか。
名人は41分考え、17時46分、金を取る順を選びました。夕方の休憩に入るまでの短い間、両者の読みがかみあったのか、ぱたぱたと手が進んでいきます。
77手目、豊島名人が飛車取りに歩を打った局面で、18時、夕食休憩に。依然豊島名人がリードをしているものの、渡辺挑戦者にチャンスが生まれてきたように見えました。
豊島「ちょっと勝ってそうな気もしたんですが、味がわるいのでよくわかってなかったです」
短い休憩の間、両対局者は軽食を取ります。
勝つ事はえらいことだ
18時30分、対局再開。渡辺挑戦者は豊島玉の脳天に銀をかちこみ、猛ラッシュをかけます。
渡辺「そこはなんかちょっと手段が出てきたんで。そのちょっと前は手段がなかったように思ってたんで。ちょっとアヤが出てきたのかなという感じでやってたんですけど」
82手目。挑戦者が名人の角を取りながら角を引き成ったところでは、飛銀馬と3つの挑戦者の駒が名人の3枚の歩で当たりとなる、すさまじい図ができました。将棋は一手ずつしか指せず、3枚の駒を一度に取ることはできません。
そして名人はどの駒も取らず、一瞬の猶予を得たタイミングで、渡辺玉の頭に歩を叩きこみました。王手を一本利かせてから、飛を取って寄せを目指します。
本譜の順は豊島名人の予定だったようですが「やられてみるとすっきりしない」(豊島)。本局もまた、手に汗握る終盤戦となりました。
88手目。複雑に互いの駒が入り組み合う中、名人の飛車打ちで横から王手をされていた渡辺挑戦者は、端に玉を逃げてきわどく耐えます。
形勢はやはり豊島名人リード。しかし残り時間は豊島21分、渡辺1時間4分と、名人の側が切迫しています。
名人は飛車で金を取れば、その手が渡辺玉の「詰めろ」となります。「詰めろ」とは、相手が受けてこなければ、相手玉を詰ますことができる状態を言います。
渡辺玉に詰めろはかけられる。しかし端に角を打ち返されると、渡辺玉の詰みを防ぎながら、豊島玉へ詰めろをかける「詰めろ逃れの詰めろ」が飛んできます。その筋はもちろん、豊島名人クラスならば瞬時に見えています。その先に勝ちがあるのかどうか。
名人は6分考えて金を取りました。詰めろです。
対して挑戦者は1分で端に角を打ち返します。今度は詰めろ逃れの詰めろ。
はたしてどちらが勝っているのか。
豊島名人はいったん受けに回ります。自玉がほんのわずかに小康を得た渡辺挑戦者。一気に追い込んでいきます。流れを見れば、完全に勝負形となったかもしれません。
名人の残り時間が刻々と削られていく中、比較的時間に余裕のある挑戦者はほとんど時間を使わずに名人玉に迫っていきます。
98手目。挑戦者はわずか2分の考慮で、王手で△7八金と打ちました。これは名人が「見逃していた」という勝負手です。その▲同金と取らせることによって、豊島陣の急所にスキができました。挑戦者は△5七金。もう1枚の金を打ち据えて、名人の玉に迫る形を作ります。
渡辺「△5七金打ってどういうふうに一手詰めろをかけられるか。受けられるか。ちょっとわかんなかったんですけど」
名人の玉は詰めろになっているのかどうか。残り時間は豊島名人はわずかに10分。渡辺挑戦者は59分と多く残しています。
記録係の秒読みの声が響く中、名人は盤上を見つめ続けます。
名人は6分を使って、残りは4分。そして▲2三歩と渡辺玉の斜め上に歩を打ちます。これは王手ではありません。次に渡辺玉を詰ませようというシンプルな「詰めろ」です。
「棋は対話なり」
と言います。指し手は時に雄弁に、対局者の心情を物語ります。技量が伯仲した対局者同士では、それが互いによくわかります。
横から見ている観戦者も、ここでの名人の歩打ちの意図はわかります。すなわち、名人は自玉は詰まないと言っているわけです。
豊島「まあ、詰まないつもりだったんですけど・・・。詰まされたらしょうがないかなあ、と。一応読みでは、詰まないと」
さあ、名人が見切った通り、名人の玉は詰まないのか。それとも詰みはあるのか。王手は相当に続きます。詰まないとすれば、何か他に勝ち筋はあるのか。
挑戦者には59分残されています。挑戦者は手をとめて、こんこんと読みふけります。
行方「勝つっていうのは大変なんですね。やっぱりこうやってみて、強い者同士が全力を出し切ると、何かが起こりますよね」
渡辺挑戦者の残り時間が25分を切る頃、行方九段がしみじみとそうつぶやきました。
「勝つ事はえらいことだ」
名人位2期、九段位4期などの実績を誇る、昭和の名匠・塚田正夫名誉十段(1914-77)はそう揮毫していました。当たり前のようでいて、これが将棋を指すすべての者に共通する感慨なのでしょう。「えらい」とは「偉い」と「しんどい」、両方の意味があります。
39分を使って、残り20分。ようやく渡辺挑戦者の手が動きました。
名人、大逃避行の末に勝利
102手目。挑戦者は王手を金を取りながら銀を不成で進め、王手をかけます。これを同玉と取れば二十数手、龍で取れば十数手かかって、名人玉に詰みが生じます。
渡辺挑戦者が考え続ける間、もちろん豊島名人も考えていました。銀の王手を取らずに逆サイドに逃げていきます。挑戦者は金で龍を取り、王手を続けます。名人は同玉。この先も延々と王手は続きますが、しかしどうやら、名人の玉は詰みません。
渡辺「▲2三歩みたいなシンプルな手で向こうが詰まないんで、『結局、追い込んだものの足りなかったという将棋なのかな』っていう感じであそこは思ってましたけど」
106手目。渡辺挑戦者は豊島名人が打った歩を△2三玉と払って開き直りました。名人は1分を使い、残りは3分。そして着実に銀を取って歩を進めます。これがまた渡辺玉への詰めろになっています。
108手目。挑戦者は12分を使って残りは8分。横から飛車を打って名人玉に王手をかけます。対して名人の応手は正確でした。棋聖戦第1局、藤井聡太七段が渡辺棋聖からの王手の追及を延々とかわし続けたのは圧巻でした。本局でも、豊島名人は正確に受け続けます。
112手目。渡辺挑戦者は名人玉の右腹に金で王手をかけます。これは鬼手です。玉と飛車、どちらで取っても怖いところです。勝つ事はえらいことだ。本当にそう思わざるをえません。
豊島名人は玉で金を取りました。それで詰みません。
行方「ひえー、そっかー」
将棋界の人々は驚いたとき、なぜだか「ひえー」と叫ぶようになっています。
行方九段が感嘆し、うなり続ける中、名人は正確に玉を逃げていきます。
渡辺「やっぱりなかなか詰みにならないんで、基本的にはちょっと足りないのかなって感じでやってました」
将棋の名局は、最後は互いの玉が接近することが多いようです。渡辺-藤井戦もそうでしたし、本局もまたそうなりました。
2三の渡辺玉、3五の豊島玉は一瞬、至近距離で接近します。そして龍の王手から逃げて▲4五玉。この時、豊島名人の飛車は龍でただで取られる格好です。しかし。
豊島「▲4五玉の時に飛車を取ったら(渡辺玉は)詰むので、ちょっと余しているのかなと」
追い立てられていた豊島玉が押さえの駒となり、渡辺玉に詰みが生じるという仕掛けになっていました。
行方「ほんと最近、熱戦揃いですよね。棋聖戦の最後の方もすごかったですが」
この6月で筆者の乏しい語彙も、いよいよ尽きた感があります。本局もまた、名局と言うよりありません。
名人は飛車を捨てる代わりに広い上部の安全地帯へと逃げ込みました。挑戦者からの追及はいったん途切れ、手番は名人に渡ります。そして攻防の角を打ち、挑戦者の玉に詰めろをかけました。残り時間は名人3分、挑戦者5分。
挑戦者はここで残り時間をすべて使い、最後の追撃を試みます。
豊島玉はついに渡辺陣に入り込み、入玉を果たしました。中盤で飛車取りに打ち、長い間遊んでいた一段目の銀までもが、受けに利いてきます。
143手目。下から追われ続けながら、名人の玉はついに相手陣一段目にまで到達しました。それで詰みはありません。
145手目。手番が回った豊島名人は、銀を打って渡辺挑戦者の玉に王手をかけます。渡辺挑戦者は龍を切って銀を取れば、詰みはありません。しかし豊島玉はすでにつかまる形ではなくなり、渡辺玉は受けても一手一手です。
豊島「最後のところですかね」
どのあたりで勝ちになったかと思ったかといえば、この銀打ちの王手だったということです。
渡辺挑戦者はしばらく盤上を見つめていた後、グラスに飲み物をそそぎ、それを飲みました。棋士は投了前にしばしば、飲み物を口にします。投了の際に声がかすれないように。そうした意図で、のどをうるおす棋士もいます。
「50秒、1・・・」
記録係の秒読みの声がかかる中、渡辺挑戦者は頭を下げ、はっきりとした声で「負けました」と告げました。豊島名人も一礼を返し、さしもの大熱戦も幕を閉じました。
報道陣が来るのを待つ間、名人と挑戦者はゆっくりとした動作で、白いマスクをつけました。
豊島「なんかもうちょっと早い段階でよく、はっきりさせたかったような・・・。ちょっとまあ、わからないままやってしまったという感じで」
局後に豊島名人はそう語っていました。
次の第4局は7月27日・28日と1か月以上先となります。
豊島「しばらくちょっと空くので、コンディションを整えたり、作戦を練ったりしてまた臨みたいと思います」
渡辺「連敗してしまったので・・・。まあ次局、少し先なので、そこで気持ちを新たにがんばれれば、という感じです」
名人戦第4局までの間、豊島名人は叡王戦七番勝負の対局があります。
また渡辺三冠は休む間もなく、中1日で6月28日、棋聖戦五番勝負第2局が控えています。