投資は情熱的に計算して理性的に賭けることだ
投資は賭けであり、賭けを欠いた理性的な計算からは何も創造されませんが、賭けに情熱を燃やせば投機となって、いずれ身を滅ぼします。賭けは、理性で制御されるときに投資となり、価値を生むのです。
お金の稼得と消費
お金がなくては暮らせないが故に、人生とは、その最も味気ないあり方において、しかし同時に最も現実的で切実な問題として、お金の稼得と消費に帰着します。これを多少とも哲学的な表現に改めれば、真の自己を見出し、それを実現していく過程が人生だとして、自己実現は、お金の稼得のなかにあるか、あるいは、お金の消費のなかにあるか、おそらくは、その両方のなかにあるわけです。
そして、経済政策的には、より多くの人が情熱に衝き動かされ、自己実現として起業し、稼げるだけ稼ぎ、形成された資本を更に大きな事業構想に投じ、同じ自己実現の異なる様態として、その剰余の全てを豪快に浪費することが望ましいのですし、そもそも、資本主義経済は、原理的に、あるいは原動力として、そのような大いに稼ぎ大いに消費する人間像を想定しているはずです。
賭けと合理的計算
起業の本質は賭けであり、賭け自体は合理的なものではなく、非合理的で衝動的な情熱のなせる業ですが、起業が成功するためには、賭けの実行において、緻密で冷静な合理的計算が必須のものとなります。
要は、起業はリスクテイクであり、それは情熱的なものですが、リスクテイクに付随する諸リスクは合理的に制御され、適切に管理される必要があるのです。例えれば、未知の土地を目指して航海に出るのは冒険であり、賭けであり、情熱的衝動ですが、航路の選択や船の操舵は冷静で緻密な計算に基づくということです。
そして、生きることも航海です。起業家とは、資本主義の理念的な人間像であって、実際に起業する人は必ずしも多くないわけですが、情熱の発露を欲望、希望、夢、目標などと呼び変えれば、個人間に程度の大きな差があるとはいえ、誰にとっても、人生とは、何らかの情熱に動かされて働き、働いて得た所得を何らかの喜びのもとで消費することであり、そこでは、所得と消費を均衡させるために、多かれ少なかれ合理的計算を必要としているわけです。
より多く稼ぎ、より多く消費する
資本主義の本質的動因は起業家精神であるべきですが、起業によって形成された富は、次の起業へ再投資されるだけではなく、消費され、その消費が経済の持続的成長の動因となるわけですから、資本主義の現象的な動因として、消費における欲望の無限の増大を想定することができ、更には、その欲望が起業家精神を刺激するとも考えられます。
要は、そもそも、経済の活ける動態においては、原因と結果を識別することは不可能であって、消費するために稼ぐのか、稼いだ結果として消費するのかは不明であり、敢えていえば、両者は循環的な相互規定関係にあるとするしかなく、ただし、経済が成長するためには、より多く稼ぎ、より多く消費するという拡大的循環になっている必要があるのです。
即ち、事実として成長している経済においては、人々は、個々人の人生観に大きな差があっても、全体としては、より多く消費したいという欲望のもとで、より多く稼ぐために努力しているはずであって、確かに、昭和の日本社会には、そうした活力が漲っていました。逆に、人々が所得額の範囲内における消費に自足してしまえば、経済は成長し得ないわけで、現在の日本には、そうした寂しい雰囲気が漂っています。
倹約は悪徳
経済成長の視点からは、単なる倹約は悪徳です。しかし、計画的な倹約は成長のための資本の形成に不可欠であり、形成された資本を賭けていくこと、即ち、不確実な未来に投資していくことこそ、資本主義の原点です。
故に、企業経営においては、単なる費用削減は間違ったことであり、冗費の削減すら、それだけでは意味がなく、結果的に生じた剰余が未来に投資されてこそ、成長が可能になるのであって、逆にいえば、成長のための投資資金を捻出するためにのみ、費用の合理化が必要なのです。この賭けるための費用の合理化こそ、真の倹約です。
個人の生活においても全く同様のことがいえて、単なる倹約は美徳であるよりも、むしろ悪徳です。人の成長とは自己実現のことですから、そのための消費は自分自身への投資なのであって、投資原資の捻出のための家計の合理化こそ、美徳としての真の倹約です。
生きがいのために消費し、その消費原資を得るために働き、働く能力を高めるために自分に投資し、より大きな稼ぐ力のもとで、より多く稼ぎ、より大きな生きがいのために消費する、こうした拡大的循環のなかで、生きがいと働きがいが一致していることこそ、人生の幸福であり、成長している経済の姿です。
金融の本質
起業したいときに、自己資本が不足するからこそ、ベンチャーキャピタル等を通じて出資者を募る金融機能が必要になり、出資者に報いる義務を負うからこそ、合理的な経営が要求されるのです。同様に、消費したいときに、お金が不足する場合があるからこそ、ローンという金融機能が必要になり、ローンを利用するからには、計画的に弁済しなければならないので、そこに家計の合理化が求められるのです。
こうして、起業への衝動は、一方で、出資者を得ることで充足され、他方で、出資者に対する責務によって制御されて、合理的な賭けとなり、消費への衝動は、一方で、ローンにより充足され、他方で、ローンの弁済計画によって制御されて、賢い消費となる、この理性によって制御された情熱という構造こそ、資本主義の本質なのです。
資産運用と投資の本質
そもそも、金融とは、過剰資金を保有する主体と、資金が不足している主体とを仲介し、社会全体において、資金の過不足を調整する機能なのですから、お金の過剰を吸収することも金融の重要な機能であって、それが資産運用や投資と呼ばれるものです。
つまり、お金を借りて先に消費し、後で金利費用も含めて弁済するのがローンであるのに対し、お金を先に投資収益で増大させ、後で消費するのが資産運用であり、お金を調達して起業した人は、成功した暁には、手にした利益を別の人の起業に投じる、それが投資なのです。
そして、理性によって制御された情熱という構造は、資産運用や投資においても同じです。計画的で合理的な資産運用によって資金が増大するにつれて、消費への情熱も高まっていく、逆に、未来へ繰り延べられた消費への情熱の高まりは、より大きな運用収益を求めて、資産運用の高度化を促す、このように、豊かさを求めて努力する生き方こそ、資本主義的人間像の現れです。
同様に、計画的で合理的な経営によって成功した起業家は、新たな起業への情熱に燃えて、しかし、自分では果たせない起業だとの冷静な認識のもとで、投資家という立場で、他人の起業に資金を投じる、こうして起業家が投資家に転じていき、投資家が新たな起業家を生む動態こそ、資本主義の本質なのです。
情熱なくしては意味がない
資産運用や投資に限らず、全ての社会事象において、人間存在の根源的なあり方として、内面から抑え難く湧き上がる衝動のもとで、不確実な未来へ賭けていかざるを得ないことが直視されなければなりません。
エンジンのなかで、ガソリンは爆発しています。爆発の力は高度に制御されなくては、車の動力になりませんが、爆発なくしては、そもそも、動力は生じ得ないのです。同様に、資産運用や投資に高度な技術のあることは事実ですが、背後に生きることへの情熱があり、本源的な賭けがなければ、賭けを制御する技術は意味をもちません。
究極の投資家
では、資産運用や投資自体が情熱の対象になり得るでしょうか。消費や起業への情熱が理性的に制御されて、合理的な資産運用や投資になるのであって、資産運用や投資自体が情熱の対象になることは珍しくもないことですが、多くの場合は、合理的な資産運用や投資が貫徹できるはずもなく、投機になるだけのことです。
もちろん、投資への情熱に衝き動かされ、しかも情熱を理性で制御できる投資家の存在を否定することはできませんが、そのような究極の投資家は極めて稀有でしょう。