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『DRAGON BALL』人気を後押しした、1985年の「週刊少年ジャンプ」の戦略

加山竜司漫画ジャーナリスト
現在でも世界規模で人気の『DRAGON BALL』(写真:ロイター/アフロ)

掲載順は人気のバロメータ

「週刊少年ジャンプ」(集英社)に作品が掲載される順番について考えたことはあるだろうか。一部の熱心な読者のあいだでは、「掲載順は人気を反映したもの」と考えられている。一例として、いまや国民的な人気を誇る『ONE PIECE』(尾田栄一郎)の、直近の掲載順を見ていきたい。

2020年

 50号:2番目

 51号:3番目

 52号:3番目

2021年

 1号  :休載

 2号  :2番目

 3・4号:1番目

 5・6号:1番目

 7号  :2番目

 8号  :休載

2カ月ほどさかのぼっても、3番目を下回っていないことがわかる。雑誌の構成上、完全に人気順にすることはありえないものの、人気作品ほど若いページに掲載される傾向は見て取れるだろう。このため、「週刊少年ジャンプ」での掲載順は、(おおまかな)作品人気を測るバロメータと目されているわけである。

そして、この掲載順の推移を見ていくと意外な事実が浮かび上がってくることもある。今回注目したいのは『DRAGON BALL』(鳥山明)の掲載順だ。

『DRAGON BALL』の“テコ入れ”

『DRAGON BALL』の連載は1984年51号からスタートした。鳥山明にとっては、前連載作『Dr.スランプ』の連載終了(1984年39号)から、わずか3カ月後の新連載であった。その間の経緯について、鳥山明は次のように語っている。

『Dr.スランプの』(原文ママ)人気が出たのはすごく嬉しかったけど、とにかく週刊連載ってのは大変だし、ネタを考えるのがキツくなってきちゃって…どうやって終わらせようかって、ずっと考えてたんです。で、「終わった3ヵ月後に新連載を始めるんだったら終わってもいいよ」って言われたんですよ。

(『ドラゴンボール完全版公式ガイド 少年編~フリーザ編』集英社)

連載開始から5号の掲載順は以下のとおり。

1984年

 51号:1番目

 52号:2番目

1985年

 1・2号:1番目

 3号  :1番目

 4・5号:2番目

5回のうち3回が巻頭カラーと、編集部の寄せる期待の大きさがうかがえる。これが破格の待遇ではなく「妥当」と思えるほどに『Dr.スランプ』の成功は大きかった。

しかし、この大きすぎる期待に応えるのは、容易なことではない。なにしろ当時の「週刊少年ジャンプ」には『北斗の拳』(原作:武論尊、作画:原哲夫)や『キン肉マン』(ゆでたまご)、『キャプテン翼』(高橋陽一)などのメガヒット作品がひしめいていた。1985年8号から11号(其之八~其之十一)までの掲載順は4号連続で7番目と、『DRAGON BALL』でさえはじめから人気連載陣の牙城を崩せたわけではない様子がうかがえる。

くわえて、テレビアニメ『Dr.スランプ アラレちゃん』(原作は『Dr.スランプ』)がまだ放映中(~1986年2月19日)であったことも影響したと考えられる。

テレビ放映だけでなく、1985年の7月には「東映まんがまつり」で劇場版アニメ『Dr.スランプ アラレちゃん ほよよ!夢の都メカポリス』が公開されるなど、まだまだ「アラレちゃん熱」冷めやらぬ時期だった。

新作を楽しむよりも旧作を懐かしむ気持ちが上回ってしまったとしても、ファン心理としては仕方のないことであったといえよう。

かくして『DRAGON BALL』は、当初の「ドラゴンボールを7つ集める冒険活劇」から「バトルマンガ」へと路線を変更することになる。

神龍を呼び出すという当初の目的を達成したあと、物語序盤を牽引したキャラクターたちをいったん退場させ(其之二十三「ドラゴンチーム解散」1985年23号掲載)、天下一武道会に向けて亀仙人の下で修行するターム(其之二十四「亀仙人の修行料」1985年24号掲載)へと突入した。

いわゆる“テコ入れ”である。

この時期の掲載順は、1985年20号は11番目、同23号は10番目と連載開始当初に比べて大きく後退していた。

とはいえ、当時は『北斗の拳』と『キン肉マン』というバトルマンガの二大巨頭が連載中であったから、この路線変更がかならずしも成功を約束されたものではなかった点は付言しておきたい。

「ジャンプ」に起きたアクシデント

『DRAGON BALL』の路線変更と時を同じくして、「週刊少年ジャンプ」では、あるアクシデントが起きていた。

『キン肉マン』の休載である。

作者ゆでたまごの嶋田隆司(原作担当)が椎間板ヘルニアで入院を余儀なくされ、『キン肉マン』は1985年38号から49号まで、およそ3カ月間にわたり休載することになった。

移り気な少年マンガの読者の興味を維持するために、編集部はあの手この手を尽くす。キャラクター人気投票の実施、巻頭ポスターの付録、「週刊ゆでたまごニュース」という作者の近況報告、休載期間中に表紙を飾る、過去原稿の再掲載などなど……。過去原稿の再掲載など、あまり前例のないことであった。

『キン肉マン』の四代目担当の茨木政彦は、当時を以下のように振り返る。

『キン肉マン』は常に人気があったし、ちょうど話も盛り上がってきたところだから「なんとかして火を消さないように」と編集部全体でバックアップしていきました。

(『生誕29周年記念出版 肉萬 ~キン肉マン萬の書~』集英社)

編集部は『キン肉マン』をバックアップする一方で、「ネクスト・ブレイク」の種を蒔くことも忘れていなかった。

それが『DRAGON BALL』だった。

かねてからの路線変更で人気回復の手応えをつかんでいたのだろう、『キン肉マン』の休載中、『DRAGON BALL』が「週刊少年ジャンプ」の表紙を飾った回数は2回、巻頭カラー(掲載順1番目)2回。「『DRAGON BALL』を推す」という、編集部の戦略的な意図が読み取れる掲載順といえるだろう。

この時期をターニングポイントとして、「週刊少年ジャンプ」のバトルマンガ路線は『DRAGON BALL』時代へと移っていく。

筆者独自調査のデータを基にYahoo!ニュースが作成(画像制作:Yahoo!ニュース)
筆者独自調査のデータを基にYahoo!ニュースが作成(画像制作:Yahoo!ニュース)

バトルマンガの“政権交代”

1986年2月19日にテレビアニメ『Dr.スランプ アラレちゃん』が終了し、翌週の26日からテレビアニメ『ドラゴンボール』の放映が開始すると、『DRAGON BALL』人気はいよいよ不動のものとなる。

アニメ開始後の1986年13号から1995年25号の最終回までの457回中、掲載順6番目は6回、7番目は5回。あとはすべて5番目以内であった。ことに1990年21・22号(其之二百七十二「間にあえ!!ななつのドラゴンボール」)以降は、最終回までの5年間、つねに5番目以内を維持し続けたのである。

一方の『キン肉マン』は、すでに物語が佳境に入っていた影響もあるが、休載以降は次第に掲載順を落としていき、1987年11号以降は13番目を上回ることがなく、1987年21号にて最終回を迎える。最終回の掲載順は14番目であった。

『DRAGON BALL』が『キン肉マン』の読者を食った(奪った)、とは言い過ぎかもしれない。しかし、当時のマンガファンが『DRAGON BALL』の魅力を再発見する契機となった要因として、路線変更の“テコ入れ”と、同時期の『キン肉マン』の休載があったことは見逃せない事実だ。

現在、電子書籍が普及したおかげで、時間や在庫の有無にかかわらず、いつでも新旧のマンガ作品に親しめる環境が整ってきた。だが、過去の作品が「なぜヒットしたのか」「なぜ路線変更したのか」を考える際には、その作品自体の面白さや完成度だけに理由を求めるのではなく、作品掲載時の時代背景や雑誌の状況にまで目を向けたい。そこで浮かび上がってくる事実もあるのだ。

(文中すべて敬称略)

漫画ジャーナリスト

1976年生まれ。フリーライターとして、漫画をはじめとするエンターテインメント系の記事を多数執筆。「このマンガがすごい!」(宝島社)のオトコ編など、漫画家へのインタビューを数多く担当。『「この世界の片隅に」こうの史代 片渕須直 対談集 さらにいくつもの映画のこと』(文藝春秋)執筆・編集。後藤邑子著『私は元気です 病める時も健やかなる時も腐る時もイキる時も泣いた時も病める時も。』(文藝春秋)構成。 シナリオライターとして『RANBU 三国志乱舞』(スクウェア・エニックス)ゲームシナリオおよび登場武将の設定担当。

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