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吉田豊、悲しみを乗り越えた先にあったドバイでの勝利

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
パンサラッサでドバイターフ(GⅠ)を優勝した吉田豊騎手

重賞を制し勇躍ドバイへ

 1994年に騎手デビューを果たした吉田豊(46歳)。

 3年目の96年にメジロドーベルと出合うとコンビでGⅠを5勝。98年にはマイネルラヴで時のチャンピオンホースであるタイキシャトルを退けたスプリンターズS(GⅠ)や2002年のオークス(GⅠ、スマイルトゥモロー)、04年の阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ)など、これまでに手にしたビッグタイトルは9つ。すっかりトップジョッキーの仲間入りを果たした。

 17年には落馬で首の骨を折る大怪我をして1年以上、競馬場から離れた。しかし、19年に復帰すると、翌20年にはクリスタルブラックを駆って京成杯(GⅢ)勝ち。17年にツクバアズマオーで制した中山金杯(GⅢ)以来、約3年ぶりの重賞制覇をマークしてみせた。

20年京成杯勝ちのクリスタルブラックと吉田豊騎手
20年京成杯勝ちのクリスタルブラックと吉田豊騎手

 その後は2年以上、重賞勝ちからは遠ざかったが、昨年10月に初コンビを組んだパンサラッサ(牡5歳、栗東・矢作芳人厩舎)と、この2月に中山記念(GⅡ)を優勝。2戦2勝となったタッグをそのままに勇躍ドバイへ飛ぶ事になった。

昨年10月に初タッグを組み勝利(写真)したパンサラッサと、ドバイへ飛ぶ事に
昨年10月に初タッグを組み勝利(写真)したパンサラッサと、ドバイへ飛ぶ事に

吉田豊の彼女?!

 復帰後は一見順調に思える彼の騎手人生だが、実は大きなダメージを受ける出来事が、丁度1年前に起きていた。

 コロナ騒動の前、私は吉田とよく食事を共にした。そんな時、彼がしょっちゅう連れて来る男がいた。仮にA君としよう。Aは美浦トレセンで調教助手をしていた。吉田は言う。

 「コロナ騒動になる前は、週に2~3回は会っていました。日曜の競馬が終わった後、2人で一泊旅行に出掛けるなんて事も何度もしました」

 吉田を知っている人なら、彼があまり騎手同士でつるまない事をご存知だろう。

 「先輩だと気を使うし、後輩だと気を使わせちゃう。だから調教助手や厩務員さんの方が気兼ねなく話せます。その中でもA君は特別な存在でした」

 吉田がAと知り合った時、Aは既に結婚をしていた。

 「仲良くしている人でも、所帯を持つと誘い辛くなって段々疎遠になるのですが、A君とは奥さん公認の仲だったのでそのあたりの心配がありませんでした。奥さんも『豊君なら仕方ないわね』という感じ。A君の家族からは『豊君は彼女でしょ』なんて言われていたみたいです」

吉田豊
吉田豊

1年前に起きたアクシデント

 事件が起きたのは丁度1年前、2021年3月31日の水曜日の事だった。

 早朝のトレセンで、吉田はAと挨拶をかわした。

 「『おはよう』『どうも~』なんていう感じ。いつも通りの朝でした」

 しかし、いつも通りだったのはそこまで。その後、世界が一転した。調教中の吉田の耳に、サイレンの音が飛び込んで来た。トレセンでのそれは放馬を報せる合図だった。

 「最初は『あぁ~、誰かが落ちて放馬しちゃったんだなぁ……。大丈夫かなぁ?』くらいの気持ちでした」

 しかし、それからしばらくして、耳を疑う噂を聞いた。

 「救急車に運ばれるのを見た人が『どうもA君らしい』と言っていました。それも『心肺停止でマッサージを受けていた』と……」

 「嘘でしょ?大袈裟に言っているんじゃないの?」

 そう思ったと続く吉田の言葉の行間に“信じたくない”気持ちが見え隠れする。しかし、それが事実である事を、直後に知らされた。

 「人づてにA君の奥さんから連絡があり『意識がない』と聞きました」

 コロナ禍で見舞いも制限されているのは承知していたが、取るものも取りあえず病院へ駆けつけた。

 「家族が『身内みたいなものだから』と病院にかけ合ってくれて、面会を許してもらえました」

 そこにはベッドの上に横たわるAの姿があった。

 「自発呼吸が出来ず、ノドに管がささっていたけど、表情は眠っているようでした。再び馬に乗れるようになってくれとは言わないから、せめて命だけは助かってほしい。ただ、ただ、その1つの願いだけで良いからかなえてほしいと神頼みをしました」

 2日後の4月2日の金曜日。週末の競馬に備え、調整ルームへ向かっている最中に連絡が入った。それはたった1つの願いがかなえられないという厳しい報告だった。

 「『もう無理です』と言う連絡でした。覚悟はしていたといえ、実際にそう言われると、悲しくて、悲しくてモノ凄い喪失感に襲われました」

 当時を述懐する吉田は、今でも言葉に詰まるのだった。

Aの話をすると今でも表情が曇る吉田豊
Aの話をすると今でも表情が曇る吉田豊

ドバイでの勝利を報告

 それから間もなく1年が経とうとしている。日本時間27日の0時過ぎ、吉田はドバイでパンサラッサを駆って果敢にハナを切った。ゴールの瞬間、ディフェンディングチャンピオンに並ばれこそしたものの最後まで抜かせず。同着でGⅠを制した。大親友である吉田豊が、世界のナンバー1ジョッキーであるフランキー・デットーリと肩を並べて登壇した表彰式を、もしAが見ていたら、果たしてどう思っていただろう。

1着同着となったデットーリ騎手と共に表彰された吉田豊。果たしてAが見ていたらどう思った事だろう
1着同着となったデットーリ騎手と共に表彰された吉田豊。果たしてAが見ていたらどう思った事だろう

 「A君とは韓国や沖縄とか、男2人で旅行する事もありました。たった1年前の今頃は、彼のいない生活がそこまで迫っているなんて考えもしませんでした。勿論、今でもふと思い出す事があります。ドバイでも『彼がいればなぁ……』なんて思った瞬間がありました」

 ドバイターフを制し、私服に着替え、携帯をチェックすると、沢山の人からお祝いのメッセージが届いていた。その中に、本来なら真っ先に届いていたであろうAからのメッセージは勿論、なかった。しかし、Aの母親からの連絡は入っていたと言う。

 「『Aも喜んでいると思う』という連絡でした。彼が亡くなった時、僕はまだパンサラッサに乗っていなかったですからね。まさか1年後に海外でGⅠを勝つなんて『嘘でしょ!!』ってビビッていると思いますよ」

 帰国後の隔離期間が終わったら、お墓参りをして今回の勝利を報告する。その時、Aから吉田の胸に、果たしてどんな返事が届くかは分からない。ただ、彼もきっと雲の上から中東での親友の勇姿を見ていたであろう事だけは、はっきりと分かる。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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