豊臣秀頼の命日の今日、秀頼が京都に残した貴重な建造物を紹介。
今日は豊臣秀頼と母である淀殿の命日。慶長20(1615)年、秀頼が享年23、淀殿が享年47。秀頼は父秀吉の後継者として大坂城で育てられたが、秀吉の死後、抜きん出た実力を持っていた徳川家康の画策によって、「大坂の陣」にて敗れて自刃した。
母の淀殿によって秀頼の意見は封じられ、何の自己主張もできなかったが、家康の勧めもあって寺社に多くの寄進をしている。家康からすれば、もちろんこれは豊臣家の財産を減らす目的があったのだが。
以下、現在残っている秀頼再建の貴重な建造物を紹介したい。
寺社に残る建造物で、最も大きなものが東寺の金堂だ。慶長8(1603)年に再建された。奈良時代の復古的建築であり、礎石は創建当時のものをそのまま用いているため、場所や規模ともに往時を偲ぶことができる。
次に大きな建造物は相国寺の法堂だ。慶長10(1605)年の再建で、禅宗寺院の法堂建築では最古最大とされる。天井に描かれた龍は狩野光信の代表作で、手をたたくと反響音が起り、「鳴龍」と呼ばれている。
同じく慶長10(1605)年に再建されたのが、浄土宗大本山のひとつである金戒光明寺の阿弥陀堂。寺院内最古の建造物で、中には恵心僧都が最後に造った阿弥陀如来が祀られている。胎内にはノミが納められていたことから「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称されている。
父の事業を継いだものとして、醍醐寺と方広寺の再建が挙げられる。特に醍醐寺では金堂、仁王門、唐門が現存し、方広寺では大仏殿や大仏は焼失してしまったが、「国家安康君臣法楽の鐘」として歴史に名を残した梵鐘が残っている。
神社建築で最大のものが、慶長12(1607)年に再建された北野天満宮門の本殿だ。普請奉行は片桐且元。本殿屋根正面は唐破風と千鳥破風で飾られ、権現造のはしりとして評価されている。他にも「鞍馬の火祭」で知られる由岐神社の本殿や拝殿も再建している。
残念ながら焼失してしまったが、方広寺の大仏殿、豊国廟、南禅寺の法堂、清凉寺の本堂、真如堂の本堂、石清水八幡宮本殿など多くの寺社の復興に財力を使い、現在の京都に計り知れない恩恵をもたらした。
母の淀殿も父の浅井長政のために養源院を建立したが焼失し、現在は、妹で二代将軍徳川秀忠の正妻であったお江(崇源院)が再建したお堂が残っている。
武将としては活躍することなく、悲運の生涯を閉じた秀頼だったが、これほどの文化的貢献をしたこと、忘れずに心にとめておきたい。