4代目バチェラー黄皓氏に聞く仕事論(前編)
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今回のゲストは、Amazon prime videoの人気恋愛サバイバル番組『バチェラー・ジャパン』シーズン4でバチェラーを務めた、実業家の黄皓(コウ・コウ)さんです。彼は10代のときに中国から来日し、早稲田大学をご卒業。大手商社・三菱商事での勤務を経て、起業されました。現在、3つの会社を運営し、次々に画期的な商品やサービスを生み出しています。彼がどのようにアイデアを生み出しているのか伺いました。
<ポイント>
・自分の生殺与奪の権利を人に握られたくない
・子どもの頃はコンプレックスの塊だった
・社員は勤怠ではなく、結果で評価する
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■就職から起業に至るまで
倉重:今日は『バチェラー4』にご参加されていた実業家の黄皓さんにお越しいただきました。有名人に大変恐縮なのですが、最初に自己紹介をいただいてもいいでしょうか。
黄:黄皓と申します。生まれは中国で、日本に定住し始めたのは15~16歳のころからです。早稲田大学を卒業して、最初に入った会社が三菱商事でした。配属された部署は金属グループで、鉄鋼のトレーディングがメインです。当時担当していたのはステンレスでした。皆さんがお使いの携帯のリンゴマークはステンレスですが、その素材供給を私がしていたのです。
入社して5年目のころにメキシコ駐在を命ぜられて、1年半程度働きました。2016年に会社を退社し、父が中国で経営していた貿易の乙仲事業※を継いだのです。同時に日本でフィットネス事業を始めて、今全国で16店舗ほどフィットネスのジムの展開をしています。2020年の7月にはミラーフィット株式会社を立ち上げました。今3社の代表を務めています。
※乙仲とは、港湾地区で貨物を取り扱う専門業者のこと
倉重:日本にいらっしゃったのは、高校生ぐらいのときからですか?
黄:中学生のときです。実は両親の仕事の都合で小学校のときにも半年間や1年だけ日本に来ることはありました。日本で本格的に暮らすようになったのは14~15歳ぐらいだったと思います。
倉重:最初は日本語を覚えるのも大変ですよね。
黄:日本に来たばかりのときはなかなか話せませんでした。ただ小さいときに時々日本に滞在していた経験が生きていた分、キャッチアップは早かったような気がします。
倉重:そこから早稲田大学に入るのは大変でしたか?
黄:いわゆる留学生枠ではなく一般受験で入りました。受験直前までは模試の成績もあまり良くなかったのです。英語は多分皆さんと同じぐらいのレベルだと思いますが、国公立の科目をカバーする余力はなかったのです。運良く早稲田だけは受かりました。
倉重:高校時代に勉強している中で、つらかったことはありませんか?
黄:大学受験もそうですが、やった分だけ報われるというものではありません。何時間勉強すれば必ず入学できるというわけではないので、常に不安がつきまとい、苦しかったという経験はあります。
倉重:ちなみに大学受験のとき、恋愛はどうだったのですか?
黄:実は高校のときに両親が「国に帰る」と言っていたのですが、僕1人だけ日本に残りました。そのときに残った理由は、クラスに好きな子がいたからです(笑)。だからこそ日本語を覚えやすい環境にいて、中国語に逃げられないという覚悟もありました。
倉重:早稲田に入ってからは、サークルは何をしていましたか?
黄:テニスサークルに入りました。どうしてテニスサークルを選んだのかというと、シンプルにテニスをしてみたかったというのもありますし、一番参加人数が多いサークルだったからです。4学年の登録メンバーだけで400人ぐらいいたのです。同じ大学の中でコミュニティーを広げたかったので、参加人数の多いサークルを選びました。
倉重:ご卒業されて、商社に行こうと思った理由は何ですか?
黄:商社に行こうと思った理由は「格好いい」「モテる」「給与高い」というイメージがあったからです。面接を受けたのは商社と電通、博報堂だけでした。当時やりたいことも使命感も全然なかったのです。汎用性の高いジャンルでトップの企業に入っておけば後から下るのは簡単だと思いました。
倉重:この対談は就活生も見ていますが、「やりたいことがないといけないのか」と悩んでいる人が結構多いようです。
黄:なぜその会社に入りたいと思ったのかは、「格好いいから」でもいいし、「将来が固まっていないからこそ、いろいろな勉強ができる会社がいい」という素直な気持ちでいいと思います。
倉重:最初はやりたいことがないのがむしろ普通ですからね。商社に入られてから仕事ぶりも順調だったわけですか。
黄:ずっと僕は「エビ、バナナの部署は嫌だ」と言っていました。昔ながらの商社は「深く、狭く」が当たり前で、専門知識だけが付いてきます。ひたすらエビのことに詳しいとか、サンマを世界中から引っ張ってくるような事業はあまりしたくありませんでした。
ディテールよりも重厚長大のものをやりたいと言って、当時は資源や鉄鋼系、自動車を志望していました。その中で金属関係の仕事だったので悪くはないかなと思ったのです。
みんなが名前を知っているような企業や家電メーカーさんとの仕事もあり、意外とやりがいはありました。
倉重:商社ではどんなふうに働いていたのですか?
黄:商社ではあまり嫌な思いをしたことがありません。割と希望どおりの仕事でしたし、上司からも裁量をもらっていました。他の人は「君は何担当」と決められていたのですが、僕は「新規事業を全部していい」と言われていました。多分型にはまったことや細かい作業ができないので「お前は好きなことをして結果だけ残せ」ということだったのです。
倉重:上司の方の信頼を得たということですか。
黄:僕は利益率と案件を取って来る率は高かったのです。既存案件よりも楽しいと思えることをして、とにかく数字にコミットするという特殊なことをしていました。
倉重:最初に入って2~3年ぐらいまでは、特にスキルがあるわけではないと思います。
仕事で成果を出すのに、意識をしていたことはありますか。
黄:昔からコミュニケーション能力は高かったのでクライアントさんに好かれたり、手に入れた情報を基に提案をしたりするのが得意でした。型にはまった在庫管理やデリバリーは全然できないので、案件を取ってきたらアシスタントさんと連携してうまく回してもらっていたのです。
倉重:エースのような働き方ですね。
黄:得手、不得手がはっきりしていただけです。会社に入って3、4年目ぐらいで、「自分は多分管理職に向いている」と思いました。
倉重:商社を辞めるきっかけは何でしたか?
黄: 入社から5年たったときにメキシコ駐在を言い渡されたのが転機になりました。商社の醍醐味(だいごみ)なので、海外に駐在したいという想いはあったのです。メキシコは超重要地域だったので、そこに出してもらったのは評価されたということだと思います。
最初は海外のクライアントと英語を使って交渉し、海外のビジネスモデルを学びながら、いろいろな刺激があるかと思っていました。ところがメキシコに行ってみたら、日本国内でしている自動車のJIT対応だったのです。いわゆる「ジャスト・イン・タイム・デリバリー」と言われる在庫をきちんと届ける仕事でした。
使う言語こそスペイン語や英語でしたが、ビジネスモデルでの新しい発見はそれほどありません。参入障壁の高い自動車の部品の製造をしていたのですが、今後のキャリアにつながらないし、学ぶことも言語以外に何かあるわけではなかったのです。その上、メキシコ国内は相当範囲が広くて、1日の移動だけで毎日5時間ぐらい運転していました。
30前後の貴重なキャリアを、学びではなく移動に費やすのはナンセンスだと思ったのです。そのタイミングで父親が体を壊したので「ここが辞め時かな」という感じでした。
倉重:「何かあったら辞めてやろう」という気持ちは、最初からあったのですか?
黄:出世するために誰かにこびへつらおうという発想は全くありませんでした。かといって、親の会社を継ごうとも思っていません。きちんと自分が認められて昇進していけば一生サラリーマン勤めでもいいと思っていたのです。ただ、他にもっと楽しいことがありそうだったので辞めました。昔から成長意欲が強くて、最初の駐在で中国を打診されたときも断ったのです。
仕事で使う言語を母国語に変えるだけなので、何の成長もありません。会社にとってはスキルを身に付けた僕が行ったほうがいいのですが、僕のメリットはありません。その後デュッセル行きの打診が来ましたが流れて、メキシコになりました。
倉重:黄さんのキャリア感についてもっと教えてください。日本はいわゆる終身雇用の慣例があって、会社に入ったらずっとそこにお世話になると考えている人も多いのです。
冷静に自分のキャリアを考えて、自分にとってのメリットを考える人は、まだまだ少ないと思います。その視点はどのようにして生まれたものですか。
黄:僕は自分の生殺与奪の権利を人に握られたくないのです。誰かの評価で自分の人生が左右されるという状態を作りたくありません。誰かにこびないと生きていけないというくらい、危ない状況はないのです。その状態を早く脱したいという想いが昔からありました。
倉重:それは幼いころからですか。
黄:幼いときは全然上昇志向ではありませんでした。学校から帰ってきて親にテストの成績を見せて「なぜこんなに成績が悪いのですか?」と聞かれたら「俺より点数の悪い人はもっとたくさんいる」と言うタイプでした。
■子どものころはコンプレックスの塊だった
倉重:自分にとってプラスかどうかを冷静に考えるようになったのはどのあたりですか?
黄:自己肯定感の醸成がすごく大きな割合を占めています。小さいとき僕はあまり自分に自信がなく、コンプレックスの塊でした。自信がなくて泣き虫だったし、人と話すのが苦手でした。
倉重:全然今と印象が違いますね。
黄:日本に来て最初は見た目や服装の違いで中学校、高校ともいじめられました。外見の変化でいうと、床屋に行って角刈りにされたのが僕的にはめちゃくちゃショックだったのです。確かに「ツンツンにしたい」とは言いましたが、ジェルで整えるようなおしゃれな髪型のイメージでした。
ただ、不思議なもので周りの評価が意外と良かったのです。おかっぱでいじめられっ子だった僕が、角刈りにしたら「雰囲気がいい」「格好いい」と言われてちょっとうれしかったのです。
この辺から「外見を磨くと人に褒められてうれしい」と感じるようになって、ちょっとずつ服装や髪型に興味を持ち始めました。そうすると男女ともにモテるようになってきたのです。外見の自信に加えて高校受験、大学受験、就職活動で第1志望に行くという経験をしたことで、周りからすごいと褒められました。
「自分は意外とイケているのだ」と感じて、どんどん自己肯定感が上がっていきました。自己肯定感を引き上げた経験が、多分キャラクターを変えたのだと思います。
倉重:自己肯定感がない人が世の中にはまだ多いと思います。話を戻すと、黄さんはお父さんのご事情もあって、会社を継ぐために退職されたのですよね。
黄:親の会社に入ったのはいいのですが、やはりどこか「親からもらったもの」という感覚が拭えませんでした。そこでは「フォワーダー」と言われる船や飛行機を手配して、通関業務や配送業務をしていました。日本通運のような物流の会社です。
倉重:そこで黄さんは、何をしていたのですか?
黄:社長業です。商社時代に国際物流や貿易取引の実務をしていたので、できないことはほとんどありませんでした。オーナー企業なのでみんな可愛がってくれるし、何となくぬるま湯に浸かっているような状況だったのです。会社を辞めた理由が「成長したい」ということだったのに、結局ぬるま湯に浸かっていたら仕方がありません。「自分でも事業をやりたい」と思って始めたのがジムでした。
父親が倒れた経験から「健康は不可欠で増進するしかない」という想いがあったことと、自分自身がメキシコで太って、「ライザップに通ってみたい」と思っていたことが相まって、フィットネス事業をやろうと思ったのが6年前です。
倉重:新規事業として始めた形ですか。
黄:親の会社とは完全に別の法人を作りました。親からもらった会社を大きくしたいという想いもありましたが、「親を超える事業をつくりたい」という男の子としての使命感もあったのです。親の会社の資金は1円も使わずに全部自分の力で立ち上げました。
倉重:自分で融資を受けたのですね。起業してからつらいときもあったのではないかと思うのですが。
黄:大組織の社員でいたときや、父の会社の社長をしていたときは細かいことは全部人がしてくれました。自分が立ち上げた会社では、電話の引き方やネットの加入の仕方を勉強しなければなりません。今までアシスタントという人たちにどれだけ助けられていたのかは痛感しました。ただ最初から売上はあったので、金額的に追い詰められたことはほとんど経験ありません。
倉重:独立してお金に困ったことが無いというのはすごいことです。
黄:どちらかというと「人」が悩みの種でした。クライアントからのクレームを全部受けなければいけないですし、心理的な負担もあります。僕がパーソナルトレーナーとして資格を持っているわけではないので、業務委託契約している人が辞めると、ものすごく事業が不安定になりました。「来週から人がいない、どうしよう」というストレスや苦労は大きかったです。あと、社会的信用は一朝一夕にはできないので、銀行に行っても誰も金を貸してくれないことがありました。
会社自体は利益が出ていましたが、事業をしていると大きなお金を動かすタイミングがあります。そのとき融資を受けられなくて機会喪失をしてしまったのは、結構苦しい思い出です。
倉重:「人」の問題は経営者にとっては大きいですよね。私はその専門家です(笑)。
一方で起業してよかったと思うこともありますか?
黄:先ほども言ったように、生殺与奪の権利が全て自分にあります。それが自分としては心理的には楽でした。人生何年生きるか分かりませんが、本当に明日、死んでもいいように生きたいと思っています。
僕は家でダラダラしていることが耐えられないのです。この世に生まれ落ちてきたのに、何も貢献しない一日があると「俺はきょう二酸化炭素しか排出していない」と罪悪感があります。自分に価値がないと思ってしまって、すごく嫌な気持ちになるのです。
倉重:オフという概念はないのですか。
黄:最近はパフォーマンスに影響するので、「あしたのために絶対休む」というのは意識しています。週末に目的もなく家でダラダラしてしまって、パッと起きたら夕方だったという日が一番苦しいです。リラクを受けてリフレッシュをするなど意識を持って休めばいいのに、何となくさぼるというのは一番価値がありません。
倉重:サラリーマン時代と比べて、働き方や意識で変わったことはありませんか。
黄:自分のことも他人のことも、圧倒的に結果でしか評価しなくなりました。今僕は3社経営していて150人ぐらい社員がいます。僕は彼らを勤怠では評価しません。会社に何時間居座っていようが、成果を出していなければ評価をしないのです。それでも会社の業績はずっと伸びているので、結果主義にしたいと思っています。
倉重:国の働き方改革では、残業規制や有給取得義務など「働かないほうが素晴らしい」という価値観をすごく出しているように感じます。それを真に受けてしまって、今の若い世代などが「残業=悪いこと」「働くこと=悪いこと」という価値観を植え付けられていることを危惧しています。
黄:今の若い人たちには労働環境の改善よりもやりがいを見つけてあげてほしいと思っています。何となく会社に行って就業時間働いたら残業をしなくていいし、もう帰ろうというのはすごくもったいない生き方をしていると思います。
みんな意欲的にやりたいことはあるはずなので、企業はそれを見つけて残業をさせたらいいし、その代わり成果を出したら何日でも好きに遊んでいいという状態を作ってあげるべきだと思います。
倉重:黄さん自身は、「何のために働いているのですか」と言われたとき、何と答えますか。
黄:自分のため、そして社会のためです。社会に貢献できたらうれしいと感じます。最後に帰属するのは自分の意識だと思うのです。誰にも評価されないことをひたすらやり続けて、自分も幸せを感じなかったら何にもなりません。
僕は働いているのが楽しいし、自分が提供したサービスが人を喜ばせて、社員がうれしそうにしているのを見るのが好きです。最後は全て自分のためになります。
倉重:やはり経営者はいいなと話を聞いていて思います。起業するか就職したほうがいいのかで迷っている人が多いと思いますが、相談されることはありますか?
黄:キャリア系のイベントに呼ばれて話すことはとても多いですね。毎回「起業がいいか、サラリーマンがいいか」に対する答えは1つ。「あなたが決めろ、俺に聞くな」です。
人によって幸せの状態は必ず違うので、お金を稼げるから絶対に経営者がいいというわけでもありません。「安定が欲しいし、それが幸せにつながる」という人ももちろんいます。それは自分で決めてください。その代わりやりたいと思っていることがあって、ただ怖くてできないのであれば背中を押しますというのが僕のスタンスなのです。
「起業イズ正義」だとは思っていません。「あなたが一番幸せになれる状態は何ですか」という相談を受けたときに、サラリーマンだったらそのまま幸せになる方法をアドバイスします。起業だったら「怖くないし、転んでもけがしない。倒れない」とお伝えしています。何でも自己実現の手段だと、僕は思っています。
(つづく)
対談協力:黄 皓/HUANG HAO
RILISIST株式会社設立(代表取締役社長)
Shanghai Transport China Logistics International Co., Ltd(代表取締役社長)
ミラーフィット株式会社設立(代表取締役社長)
早稲田大学卒業後、総合商社の三菱商事株式会社へ入社し、デジタル家庭電化製品、自動車用部品、工業プラント施設向けの鉄鋼製品のトレーディング業務に従事。メキシコでの海外駐在も経て退社。その後、家業であるShanghai Transport China Logistics International Co., Ltdの代表に就任し、国際物流の事業を経営しつつ、RILISIST設立を設立し、現在は全国で約15店舗のパーソナルジム兼セルフエステの受け放題サロンを経営。20年にはミラーフィットを設立し、自社開発のスマートミラーデバイスを活用した、新しい形のオンラインフィットネス事業を展開。「ジムに通いたいけれども時間がない」「毎日続けられない」といったユーザーのペインを解消するだけでなく、トレーナーの新しい働き方を叶えるプラットフォームを目指していく。