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露反体制派ナワリヌイ氏に猛毒の神経剤が使われた プーチン大統領は何を恐れているのか

木村正人在英国際ジャーナリスト
神経剤を盛られて入院中の露反体制派ナワリヌイ氏(2019年7月)(写真:ロイター/アフロ)

「コリンエステラーゼ阻害剤グループの物質が盛られた」

[ロンドン発]ロシアの反体制活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏(44)が8月20日、モスクワに向かう機中で意識を失い、ドイツに運ばれ治療を受けている「毒殺未遂」事件で、入院先のシャリテー・ベルリン医科大学病院は24日、ツイッターで「コリンエステラーゼ阻害剤グループの物質が盛られた」との診断結果を発表しました。

ナワリヌイ氏は集中治療室(ICU)で治療を受けており、医学的に昏睡状態に置かれています。容体は「深刻だが、現在、生命を脅かすものではない」そうです。これに対して、マイク・ポンペオ米国務長官は25日「深刻な懸念」を表明するとともに、徹底した捜査と責任追及の必要性を強調しました。

コリンエステラーゼ阻害剤は、アセチルコリンエステラーゼの活性を阻害して脳内の神経伝達物質アセチルコリンの量を増やし、アルツハイマー型認知症の進行を遅らせる薬としても使用されます。しかしその多くは殺虫剤や農薬として使われ、化学兵器のサリンやVXガス、ノビチョクにも含まれています。

英イングランド南西部ソールズベリーで2018年3月に起きた元二重スパイのロシア人男性セルゲイ・スクリパリ氏と娘のユリアさんの毒殺未遂事件では兵器級の神経剤ノビチョクが使われました。この事件では巻き添えで市民と警官3人が死傷しました。

ナワリヌイ氏は調査報道ジャーナリスト、政治家として活動する反プーチン派の急先鋒。彼が2011年に設立した反腐敗財団はロシアの政治エリートの保有資産を明らかにするリポートを数十も作成。動画投稿サイト、ユーチューブで何百万回も視聴されています。

9月の統一地方選を前にシベリアの各都市を回り、20日モスクワに帰る機中で意識不明になりました。同行していた報道担当者のキラ・ヤルミシュ氏によると、ナワリヌイ氏は午前中に口にしたのはシベリア・トムスクの空港で飲んだお茶だけで、そのあと機中で体調が急変したとのことです。

プーチン大統領を批判する反体制派の活動家やジャーナリスト、実業家、元ロシアの情報機関員は次々と毒殺されたり、暗殺されたりしています。毒物を使うのは、効果が現れるまでの間に実行犯が逃亡できる上、プーチン批判をすると苦しみ抜いて死ぬことになるという反体制派への脅しと見せしめ、側近グループの引き締め効果が期待できるからです。

「クレムリンの動きを論理付けるのは難しい」

2006年には、元ロシア連邦保安庁(FSB)幹部アレクサンダー・リトビネンコ氏(当時44歳)がロンドンのホテルでお茶に致死性の放射性物質ポロニウム210を入れられ、毒殺されました。リトビネンコ氏の妻マリーナさんに話をうかがいました。

木村:なぜ、ナワリヌイ氏は今、毒を盛られたと思いますか。

マリーナさん:クレムリンの動きを論理付けるのは非常に困難です。特にタイミングについてはそうです。人々は「なぜ今なのか」と問います。その理由を語ることは難しい。しかし考えることはできます。

私たちはベラルーシで何が起きているのかを知っています。ベラルーシの人々は26年間、アレクサンドル・ルカシェンコ大統領に抗議せず、沈黙してきました。しかし先の大統領選でベラルーシの人々は非常に活動的になり、体制に批判的になりました。

マリーナ・リトビネンコさん(筆者撮影)
マリーナ・リトビネンコさん(筆者撮影)

これはクレムリンへの非常に悪いメッセージです。なぜならロシアの人々も不満を募らせ、不幸に感じて、自由を求める日がいつか来るかもしれないからです。

しかしロシアはベラルーシではありません。ベラルーシの人口は940万人。一方のロシアは1億4438万人。ベラルーシの人々を動かすのはロシアよりはるかに簡単です。

2つ目のポイントは、クレムリンが心配しているのはベラルーシだけではないということです。ロシア極東ハバロフスクでは知事が(ライバルの殺人や暗殺を指示した容疑で)逮捕され、モスクワに対して非常に批判的になりました。抗議デモが7週間にわたって行われています。

誰が動員したわけでもありません。人々は民主的な選挙を求めて自分たちの権利のために闘うことを決めたのです。

しかし、もしリーダーがナワリヌイ氏なら、クレムリンにとってはさらに多くの問題が発生することになります。(毒殺計画の)タイミングについては、ナワリヌイ氏を無力化するために実行された可能性があります。

ナワリヌイ氏が人々に情報を与え、人々に語りかけ、もっと多くの抗議活動を組織化するチャンスを与えないようにするためです。これがおそらく今回の事件がこのタイミングで起きた理由だと考えることができます。

「プーチン大統領を愛していると言える人は少なくなった」

木村:プーチン大統領はベラルーシやハバロフスクで抗議活動が起きていることを恐れているのでしょうか。

マリーナさん:彼は恐れていると思います。いつも言っているのですが、街頭に1万人が繰り出しても恐れる必要はありません。5万人でも心配ありません。しかし、ある日10万人、100万人になる可能性があります。

警察や軍の人々がどんな決断をするのかは決して分かりません。プーチン大統領を支持するのか。それとも人々の味方に回るのでしょうか。だからこそ彼ら(クレムリン)は大きな抗議活動を組織する可能性を与えたくないのです。プーチン大統領が恐れる理由もそこにあります。

プーチン大統領は人々が自分のことを愛していると信じているのか、彼の側近たちがプーチン大統領にそう信じさせたいのか、私には分かりません。プーチン大統領を愛していると言える人々は次第に少なくなり、人々はプーチン大統領に対してますます批判的になりました。

「側近にメッセージを与えることが最も重要」

木村:プーチン大統領はロシア憲法改正の是非を問う国民投票で賛成78%と圧勝し、2036年まで大統領を続けることができるようになりました。しかし新型コロナウイルス・パンデミックで支持率は落ちています。

マリーナさん:プーチン大統領は国民投票を実施するのに必死でした。最初は4月に行われる予定だったのに、新型コロナウイルスが原因で7月に延期されました。国民投票を実施するために、コロナ対策の規制が大幅に緩和されました。

しかし国民投票の結果は、プーチン大統領が可能な限り長く権力の座に留まることをロシアが期待していることを意味していません。

彼にとっては側近グループにメッセージを与えることが最も重要だったのです。任期が終わりに近づくと、そうした側近たちはプーチン大統領のことを重要視しなくなる可能性があります。

今は特別なゲームのような状況です。いつプーチン大統領が辞任するのか誰にも分かりません。彼はすぐに辞めるかもしれないし、2036年まで大統領をするかもしれません。プーチン大統領はこうした不確実性を好むのです。これは一種のゲームです。

憲法は改正されましたが、プーチン氏が2036年まで大統領職にとどまることを意味するのではありません。側近たちはプーチン大統領を支持し続けるのか、反目に回るのか、判断するのが非常に難しくなります。

だから、もっと注意を払わなければならなくなります。全てがゲームのような陰謀なのです。この1年、2年で何が起きるのかは非常に不透明です。

国民投票の結果、憲法が改正されても、私たちはプーチン大統領のプランについて何も理解しているわけではありません。支持率は高くなく、彼は公の会合を十分に持っているわけではありません。彼はあと半年ぐらい孤立状態を続ける可能性があります。

ほとんどの場合、彼はオンラインで済ませる一方で、側近とは会っていますが、それほど頻繁ではありません。コロナ危機でプーチン大統領も非常に厳しい状況に置かれています。人々は困窮し、経済は悪化しています。プーチン大統領が事態を改善できる可能性があるようには見えません。

「ロシア国民はプーチン大統領のワクチンを喜んでいない」

木村:プーチン大統領に対するロシア国民の見方が厳しくなっているのはやはりコロナと経済の悪化、貧困問題ですか。

マリーナさん:はい。間違いありません。次々と疑念が膨らんでいます。国のリーダーはどこにいるのか。この困難な時期に彼はどのようにして祖国を助けたいのか。しかし彼にその能力があるようには見えません。

まず、プーチン大統領は彼の権限を地方のリーダーに委譲することを決め、自分の責任を全て取り除きました。それから彼はいくつかの決定をし始めましたが、何をすべきかを分かっているようには見えません。

彼は驚くべき発表をしました。ロシアはすでにコロナウイルスのワクチンを持っているというのです。しかし誰も信じていません。ロシア国民でさえ、このワクチンを使うことを喜んでいません。

ワクチンの安全性が証明されていません。それが効くことも証明されていません。なぜこのワクチンを使用する必要があるのでしょう。プーチン大統領はみんなの関心をこれに惹き付けようとしていますが、成功していないようです。

木村:プーチン大統領は自分の娘もワクチン接種を試みたと発表しましたが、どう思いますか。

マリーナさん:しかし、どのようにして、それが確かかどうか知ることができるのでしょう。プーチン大統領が言ったことは知っていますが、私たちは彼を信頼できるのでしょうか。私には分かりません。問題は非常に複雑です。

「ナワリヌイ氏は若者の支持を集めている」

木村:ナワリヌイ氏は今、ロシアにどのような影響力を持っていると思いますか。

マリーナさん:彼は最も著名な反対者です。彼は多くの調査報道を行い、そのうち最も有名なのは、プーチン大統領の非常に親しい友人であるドミトリー・メドベージェフ元首相に関するドキュメンタリーです。多くの若者が抗議のため街頭に繰り出し、ナワリヌイ氏の調査報道がどれだけ威力があるか示されました。

彼は調査報道ジャーナリストであるだけでなく、選挙に関与しようと二度試みました。(横領罪で起訴される中)2013年のモスクワ市長選に出馬し、現在のモスクワ市長、セルゲイ・ソビャーニン氏に次ぐ2位につけました。2018年のロシア大統領選に立候補しようとしましたが、認められませんでした。

彼は非常に有名で、非常に活発で、非常にエネルギッシュです。そしてモスクワやサンクトペテルブルクだけでなく、ロシア各地に多くの若者の支持者を抱えています。

しかし、そのためにナワリヌイ氏は多くの困難に直面しています。逮捕されるかもしれないし、多くの法的事件が起こされるかもしれません。それはナワリヌイ氏を疲弊させる戦術です。

彼は罰金をいくら払わなければならなかったのか。そして彼の事務所がどれだけ捜査されたのか。多くの設備とコンピューターが持っていかれました。それは延々と続きます。しかし、ロシアの非常に裕福な人々が名乗りこそしないものの、ナワリヌイ氏を支援しています。

あなたは彼を反政府活動家、政治家、調査報道ジャーナリストと呼ぶかもしれません。決して速くはないかもしれませんが、一歩一歩、彼は特に若者の支持を集めています。

しかし、ロシアの野党は結束していないため、彼を野党のリーダーと呼ぶことはできません。野党のふりをする人や本物の野党であったとしてもナワリヌイ氏とは連帯していません。ナワリヌイ氏は権威主義的な指導者だと批判されることもありましたが、私はその理由を理解します。

多くの妥協と慎重さがあったため、野党間の結束は前回、機能しませんでした。ナワリヌイ氏は自分のライン、自分の考え方を持つことを決め、懸命に努力しました、そして彼は彼の方法で成功したと言えると思います。

「2人ともロシアが引き起こす危険性を知らせようとした」

木村:リトビネンコ事件とナワリヌイ氏の毒殺未遂事件の間にはどのような類似点があると思われますか。

マリーナさん:2人とも今のロシアが引き起こす危険について人々に知らせようとしました。サーシャ(リトビネンコ氏の愛称)は治安機関がロシアの人々にとって、そして国際社会にとって非常に危険になったことを伝えようとしました。

ナワリヌイ氏は、ロシア国内の腐敗や犯罪について伝えようとしています。サーシャを毒殺し、ナワリヌイ氏を毒殺しようとした人はロシア国民や国際社会がそうしたことに気付くのを嫌がったのです。2つのケースには非常に強い関連があると思います。

木村:アメリカやイギリスは今回の事件以前にロシアに対して、重大な人権侵害に関与した人物や組織に対して査証発給禁止や資産凍結の制裁を科す「マグニツキー法」を発動しました。

マリーナさん:マグニツキー法は個人も対象にしているので、非常に重要です。誰が関わったのか指摘する必要があります。誰がマネーロンダリング(資金洗浄)に関わったのか、重大な人権侵害を犯したのかを名指ししなければなりません。誰がナワリヌイ氏に毒を盛ったのか私たちも知ることができるかもしれません。マグニツキー法は非常に効果があると私は信じています。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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