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ノムさんに勝った名将、逝く/都市対抗野球優勝3度、垣野多鶴さんのこと その2

楊順行スポーツライター
2003年の都市対抗では、野村克也率いるシダックスに決勝で勝って優勝(写真:アフロ)

 垣野多鶴監督の都市対抗3度目の優勝は、2005年のことだ。03年に2度目の優勝を飾った三菱ふそう川崎だが、翌04年には、激震に襲われた。池井戸潤の『空飛ぶタイヤ』(近作は読んでいないけど、氏の著作の中では最高傑作だと思う)のモデルとなったリコール隠しが発覚し、事件の余波でチームは活動自粛を余儀なくされるのだ。

 5月の京都大会で優勝と、確かな手応えがあっただけになんともやるせない。

「京都大会を最後に、翌年3月までの対外試合自粛処分です。その間野球部員は、全国の販売会社に散って、クレーム処理などのお手伝いでした。激励するために全国を歩くと彼らは、汗まみれで働き、夜勤もあり、バットとボールは持っていても、社業のあとは疲れ果てて野球どころではない。それでも選手たちは、愚痴ひとつこぼさず、社業に専念していました」

 ようやく活動を再開したのは11月。苦労を強いた選手にとって、優勝することが一番の恩返しだが、筋肉が落ちている者も、不規則な生活で太った者もいて、いきなり従来のような強い負荷をかけたら故障しかねない。一刻も早く練習したい焦りを抑え、垣野さんは慎重な上にも慎重になった。疲れを取り、リフレッシュし、体を元に戻すのにまず1カ月。12月からそろりそろりと体力を回復させ、1月はトレーニング、ようやく本格的な練習ができたのは05年の2月になってからだ。垣野さんが当初描いたプランより1カ月遅れで、「選手も不安だったでしょうが、私も前のめりの気持ちを隠すのが大変でしたね」

 むろん、選手に苦労をかけたとはいえ、練習に臨む厳しさは変わらない。手加減一切なし。当時ふそうのコーチで、垣野さんとともに09年にNTT東日本に転籍した安田武一コーチは、こんなふうに表現したことがある。

「垣野さんの下でコーチになったのは02年ですが、一瞬も気の抜けない、張り詰めた日々でしたね。監督室のドアをノックするのさえ、勇気が必要でしたから」

スローガンはRevival of FUSO

 そういう日々を蓄積し、Revival of FUSOをスローガンに掲げたチームは徐々に仕上がっていく。対外試合が解禁となり、シーズンに入ると静岡、京都両大会などで実戦感覚を取り戻していく。照準は東京ドーム1本。オープン戦を含め、そこまでの試合は、勝ち負けよりもその段階でなすべきことができているかをテーマにした。そして……「ここまで来れば大丈夫、というところまでチームは戻った。あとは運が味方してくれるかどうか」と垣野さんも手応えを感じての都市対抗2次予選。ライバルチームの監督が「ふそうの選手からオーラが出ている」と表する一体感で、西関東第1代表の座を勝ち取った。

 東京ドームでも、強いふそうが戻ってきた。西郷の2本塁打などでJR北海道を下し、Honda鈴鹿、日本通運、NTT東日本、そして日産自動車を撃破して頂点に立つ。投手陣は徳丸哲史、谷村逸郎、さらに補強を含めた小刻みな継投、打線では高見澤力や三垣らが気を吐く。植山幸亮は九番ながら満塁弾含む2ホーマーで12打点と、MVPにあたる橋戸賞に輝いた。活動自粛から劇的V字回復の優勝。苦しかった、本当に大変だった、だからさ……。

「05年の優勝では、野球をやっていて初めて、泣いちゃったんだよね」

 垣野多鶴、都市対抗3度の優勝。ほかに2人しかいない大記録である。そのうちの一人・ENEOSの大久保秀昭監督は12年、08年に続く自身2度目の都市対抗制覇を遂げたとき(当時はJX-ENEOS、チームとしては最多の10回目V)、垣野さんにこんなふうにいわれたそうだ。

「3回優勝とか、あまりむずかしく考えるなよ。オレだってできたんだから」

 そして……翌年、JX-ENEOSが果たした都市対抗連覇が、大久保にとって3回目の優勝となった。垣野さんと大久保、いずれも6年間で果たした偉業、というのがまた、すごい。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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