40年前、お風呂場で小野田寛郎さんがポツリと言った「(終戦を)知っていた」
小野田寛郎さんが91歳で亡くなってから1週間がたった。じつは、私の父・津田信は、1974年に小野田寛郎さんがルバング島から帰還したとき、小説を一時的に書かなくなって、『週刊現代』などの週刊誌のアンカー原稿を書いていた。その縁で小野田さんの手記のゴーストライターとなり、『週刊現代』に「わがルバング島の30年戦争」(のちに講談社から出版された)を連載した。そして、それから3年後、小野田手記は小野田さんが話したことを脚色したものであることを、『幻想の英雄』という本で明らかにした。
当時、私は大学生で、世間が小野田さんの帰還に大騒ぎをしているのは知っていたが、まさか父親が手記を代筆しているとは知らなかった。もとより、「最後の日本兵」と言われてもピンと来なかった。
それが、あるとき、父から頼まれて「着替えを持ってきてほしい」ということで、一気に小野田さんが身近な存在になった。というのは、父は手記を書くために、小野田さんと共同生活をしていたからだ。
小野田手記はメディアの争奪戦となり、獲得した講談社は、ほかのメディアの目を逃れるため、小野田さんを野間家(講談社の社主)の別邸(静岡県伊東市)に隔離した。そこで、『週刊現代』の担当者と父が共同生活をしながら、小野田さんから話を聞いていたのだ。
「着替えを持ってきてほしい」と父が言ったのは、最初、共同生活がそんなに長くなるとは思わなかったからだった。
父から頼まれた着替えを入れたバッグを持って東海道線に乗り、伊東に向かった。野間別邸は広い庭を持つ昔ながらの木造洋館で、その一室に小野田さんはいた。私は、庭に面した応接室で初めて小野田さんに会った。痩せていて、思ったより小柄な人だというのが第一印象だった。
このときのことを書くと長くなるので、印象に残ったことだけ書くと、小野田さんは世間が騒いでいるような人ではなかったということだ。戦争がどうのこうの、帝国軍人がどうのこうのという話は抜きにして、私には単なる「気が小さいおじさん」にしか思えなかった。
なぜなら、この夜、私は小野田さんと一緒に風呂に入り、彼の背中を流しながら話をしたからだ。
私はおそるおそる聞いた。「小野田さん、戦争が終わったのを知っていたんですか?」
すると、小野田さんは、なにかに怯えているような目つきになり、「そうだ」とぽつりと言った。私はこのとき、ただ、「やっぱり」と思っただけだった。それから、小野田さんは湯船につかりながら、突然、持っていた銃の話をしてくれた。「坊主、銃というのはこうやって構えて、こうやって撃つんだ」みたいな話だった。
あとから知ったが、小野田さんは戦後、ルバング島で生き残った仲間と住民を襲い、食料を奪いながら生きてきた。村人を何人か射殺している。銃は肌身離さず持っていた。だから、戦争が終わっていたのを知っていても、報復が恐くてジャングルを出られなかった。ただ、最後に残った仲間の小塚一等兵がフィリピン警察軍に殺されたので、観念したのだろう。
(つまり、元上官の任務解除命令、フィリピン軍に投降などの一連の儀式は、フィクションの上に成りたっていたと言える)
いまから40年も前の話で、当時の私は、小野田さんが話したことの意味はよくわからなかった。ただ、いま亡くなられて思うのは、「戦争は人の運命を狂わせる」ということだけだ。いまだに、日本は首相の靖国参拝問題などで、半世紀以上前の戦争を引きずっている。
小野田さんが亡くなってから、ネットに書き込まれた若い世代の意見を読んだ。また、彼を戦前の強い日本人、誇り高き軍人の象徴と捉えている識者の追悼コメントや追悼記事も読んだ。そうして、なぜかしっくりこない気持ちを、今日も抱えている。