【光る君へ】出世に遅れ、日記『小右記』に怒りをぶちまけた藤原実資
現在の企業は厳しい評価主義の人事制度が採用されており、仮に同じ50歳であっても、部長と係長くらい差があることも珍しくない。また、年上部下が増えたのも、昨今の流れになろう。
大河ドラマ「光る君へ」で存在感を示す藤原実資も人事に不満を持ち、日記『小右記』の中で怒りをぶちまけていた。その点を取り上げておこう。
実資は天徳元年(957)に斉敏(実頼の三男)の子として生まれ、のちに祖父の実頼の養子となった。実頼は有職故実に精通し、摂政や関白を歴任した人物である。
実資は小野宮流の莫大な家領を継承し、また有職故実の家説を継承した。実資は最終的に従一位・右大臣まで昇進するが、藤原師輔の九条流の後塵を拝することになった。
寛和2年(986)に花山天皇が退位すると、一条天皇が即位した。同時に、一条天皇の外祖父の藤原兼家が摂政となり、権力を掌中に収めた。
一方で、実資は蔵人頭を務めていたが、一条天皇の即位に伴い、職を解かれることになった。しかし、翌年には再び蔵人頭に任じられたのである。
問題となったのは、永延2年(988)2月の除目(人事)である。このとき、藤原誠信(964~1001)が実資より先に、参議に任じられたのである。
参議は三位、四位から有能な者を選び出し、朝廷政治に参画することができた。大臣、大納言、中納言に次ぐ重職だった。しかも、誠信は実資よりも7歳年下なので、実資の腹の虫は収まらなかった。
実は、この人事には裏があった。誠信の父の為光は、異母兄の兼家と出世レースを演じたほどの実力者だった。兼家が摂政になると右大臣に任じられ、最終的には太政大臣にまで昇進した。
実資の日記『小右記』によると、なぜこのような人事になったのかが記されている。
人事に際して、為光は兼家のもとを訪れ、涙を流して「誠信を参議にしてほしい」と要望したという。もし、誠信が参議になったならば、為光は右大臣を辞めてもいいとまで言ったのである。
しかも、為光は実資の悪口まで言ったといわれている。これに対して実資は、自分のほうが在職年数が長いのに、誠信が先に参議になるのはおかしいと憤慨し、『小右記』に記録している。
しかし、その1年後、実資も参議になった。最終的に実資は、従一位・右大臣にまで昇進した。一方の誠信は情実で参議になったが、その後は能力の無能さを見抜かれ、弟の斉信にも後れをとった。人事は難しいものだが、さすがに情実はいけないようである。