100年以上も前に成立した「未成年喫煙禁止法」とは
日本では、明治時代にすでに未成年喫煙禁止法が作られていた。帝国議会に提案したのは根本正ら。タバコ問題をいち早く立法の舞台で取り上げ、戦後もその基本的な内容が引き継がれている。
法案は根本らが提案
タバコは大航海時代に新大陸から伝えられた。17世紀にはタバコは世界中に蔓延し、英国ではジェイムズ国王(イングランド王とスコットランド王)が、江戸時代には主に奢侈贅沢を禁ずる目的で禁煙令めいたものが出された。
日本におけるタバコ対策の嚆矢といえば、根本正(ねもとしょう)だろう。1851(嘉永4)年、水戸藩(現在の茨城県那珂町東木倉)で生まれた根本は、水戸学の学者であった豊田天功の家で下男として働きながら、勉学にはげんだ。
維新後、根本は米国に渡って28歳で小学校から始めるなど苦学するが、バーモント州立大学で学んで帰国する。衆議院議員になってからの根本は、米国での体験から1899(明治32)年に国民教育授業料全廃を建議し、義務教育国庫補助法を成立させるなど、義務教育の普及と充実に尽力した。
さらに、米国で飲酒や喫煙から子どもたちが不健康な生活をしていたことを知っていたため、1900(明治33)年3月6日に未成年喫煙禁止法(幼者喫煙禁止法、同年4月1日より施行)を、1922(大正11)年に未成年者飲酒禁止法を成立させた。
この法案(幼者喫煙禁止法案)が帝国議会へ提出されたのは1899(明治32)年12月、総理大臣は山県有朋の内閣で、日清戦争が終わり、日露戦争が始まる前のことだ。
法案提出者は根本のほか、丸山嵯峨一郎(新潟県選出の弁護士)、恒松隆慶(島根県選出の自由民権運動家、実業家)、下飯坂権三郎(岩手得県選出の自由民権運動家)、早川龍介(愛知県選出の政治家)の5人。同法案は、翌年の本会議で全会一致で可決成立した。
この法律の内容は、18歳未満の未成年の者が喫煙することを禁止し、保護者が子どもの喫煙を放置すると1円以下の罰金、販売者は10円以下の罰金が処せられる(当時の1円は今の貨幣価値で1万円から2万円ほど)。
富国強兵の側面も
法案提出時の理由説明で根本は、タバコはニコチンを含有し、未成年者の神経を麻痺させ、知覚を遅鈍にし、国民の元気を消耗すると批難している。
また、ドイツ政府が16歳以下の喫煙を禁止したのは、喫煙が身体の発育を妨げ、軍人に不適当な国民を作るからだと述べ、米国の兵役への喫煙の悪影響などの事例を紹介している。
当時は帝国主義の時代であり、各国ともに富国強兵を掲げていた。根本ら法案提出者は、議会で説得力を増すため、強靱な兵隊を作るのに必要ということでタバコの害を力説した。
一方、政府は1898(明治31)年にタバコを専売化し、葉タバコを政府が買い上げ、その後1904(明治37)年の日露戦争前に製造販売を政府が行うことにしている。
ただ、当時のタバコは主に刻みタバコで煙管や手巻きで喫煙したため、たまの一服や「ハイカラ」な都市部の喫煙者が吸う程度で生産量も多くはなく、喫煙率が高くなることはなかった。
大量生産大量消費時代に吸わされるタバコ
だがその後、紙巻きタバコ(両切りタバコ)を大量生産する機械が開発され、大量に製造された紙巻きタバコを売るため、政府は兵役中の兵士にタバコを配って喫煙を覚えさせ、大規模な広告宣伝を展開するなど、喫煙者も大量に作り出すようになる。
世界的にはタバコ産業が巨大化し、政治的にも大きな力を持つようになっていく。日本のように専売制をとる国はもちろん、タバコの健康への悪影響をうったえる声は次第にかき消されていった。
とはいえ、根本らが成立させた未成年喫煙禁止法は、世界でも早い時期にできたタバコ規制法だ。英国で、16歳未満の子どもを守る喫煙禁止を含む児童法(8 Edw.7)が成立したのが1908(明治41)年のことだった。
この未成年喫煙禁止法は、年齢が20歳以下に引き上げられたが、戦後もその基本的な内容は引き継がれている。現行法の罰則は、未成年者への販売は50万円以下の罰金、親権者らの監督者責任は1万円未満となっている。
ところで、喫煙の害は未成年者だけにおよぶものではない。成人の喫煙者にも健康へ多大な悪影響をおよぼす。
ニコチンの依存性は意外に強い。一度、手を出せば禁煙は難しい。成人になったら吸ってもいいというわけではないのは言うまでもない。