やましくなければプライバシーは要らない? nothing to hideを巡って
nothing to hideとは
このところ暗号規制のあり方について関心を持っているのだが、話のとっかかりとして、いわゆる「nothing to hide」論について少し書いてみたい。
うまい訳が思いつかないのでとりあえずこのままにしておくが、ようするに「隠すことがない」ということである。セキュリティやプライバシーの文脈では、「私には隠すことなどない、だから企業や政府に監視されても構わない」という主張になり、ひいては暗号規制のような政策の論拠となりうる。
nothing to hideの強み
この主張が厄介なのは、ある種素朴な倫理観に訴えてくるからである。すなわち、「隠したいことがある」イコール「何かやましいことがある」であり、やましいことがあるならそもそもそれが問題で、プライバシー云々以前に非難に値するのではないか、と考えがちなわけだ。更には、プライバシーだのなんだのうるさく言う人は、何かやましいことがあるから隠したいのだろう、という話にもなる。暗号だのなんだのはテロリストや犯罪者だけが使う特殊な道具で、自分たちのような善良な市民には関係ないと考えるわけだ。実はそんなことはないのだが。
セキュリティやプライバシーの専門家は、この種の主張に関して意外と無警戒というか、あまり重視していないような気がする。しかし私の印象では、世間の人の多くは多かれ少なかれnothing to hide的である。私自身、別にやましいことはないので、監視されても困らないとは言える。高名なセキュリティ専門家のブルース・シュナイアーは、nothing to hideは「プライバシーを擁護する人たちに対するもっともよくある反論」と述べているが、全くその通りだと思う。市井の人がnothing to hide的なことを言うたびにリツイートするTwitterアカウントまである。
もちろん、いくら隠しごとがないからといって、いつでも家宅捜索されて良いですか、とか、盗聴してもいいですか、と聞かれれば、それには反対する人が多いだろう。しかし、テロリストがスマホに暗号をかけていて解読できないんです、別に暗号を全て禁止するつもりはないんです、でも政府に解読できないくらい強力な暗号は法律で禁止しませんか、と政府に言われれば、賛成する人はいるかもしれない(というか結構いた)。安直な暗号規制の議論が、何度専門家によって論破されても亡霊のように蒸し返され続けるのは、nothing to hideと親和性が高い心情が多くの人に深く根ざしているせいだと考えるべきだろう。
では、どうすればnothing to hideを成仏させることができるのだろうか。次回はそこを考えてみたい。