広島は平和都市なのか? 忘れられた平和塔から研究者が問う「ありふれた」実像
広島駅裏の小高い二葉山に銀色の塔がそびえている。釈迦を祭った仏舎利塔で、ドーム状の異質なシルエットは山陽新幹線の車窓からも見える。
しかし、その名前が平和塔だということはどれだけ知られているだろう。被爆地広島の聖地平和記念公園と原爆ドームからは数キロ離れ、観光客が訪れる様子もない。
実は戦後間もない頃、爆心地付近にも平和塔があった。わずか4年で取り壊されたが、その後も復興と平和の象徴として再建が目指されていた。
広島出身の都市社会学者仙波希望さん(36)は、ほとんど顧みられてこなかった平和塔の歴史に着目してきた。
79年目の8月6日を前に、その成果は『ありふれた<平和都市>の解体 広島をめぐる空間論的探求』(以文社)として世に放たれた。平和塔とは一体何だったのか。そして仙波さんが地元を「ありふれた」都市と表現した意味とは。
「あの日」からは見えてこない広島
博士論文をもとにしたこの本では、平和都市広島というテーマには珍しく、8月6日の出来事や被爆者たちの証言を扱っていない。仙波さん自身被爆3世ではあるが、「あの日」を始点とすることで見えなくなる都市の実像を問うため、あえて距離を取ったという。
平和塔、戦前戦後の博覧会、原爆スラムと呼ばれた相生通りのバラック…。分析対象としたのはいずれも忘れ去られた存在ばかりだ。
公文書、新聞、追想録などからそれらの歴史を徹底的に追うことで、軍都から平和都市へ変化を遂げたとされる広島を足元から問い直していく。
「平和塔が建てられたプロセスや背景を調べていくと、単に平和を願った建造物ではなかったことが分かってきます。表象しているものの複雑さに、すごく興味を持ちました」
平和塔について、本の内容をもとに書いていきたい。冒頭紹介した二葉山の平和塔が完成したのは1966年。宗教団体・日本山妙法寺が戦後日本各地に建立した仏舎利塔の一つで、原爆死没者の慰霊と世界平和を祈願している。
その19年前の1947年、現在は平和記念公園の敷地となった爆心地そばの三角州に、木造の平和塔が地元行財政界によって建てられた。一帯は平和広場となり、8月6日の平和記念式典の原型となる「平和祭」が催される。塔には平和の鐘が備え付けられ、平和祭で打ち鳴らされていた。
仏舎利塔と違って宗教的背景はなく、市民に親しまれていた平和塔。しかし1951年に「美観上の理由」であっさり撤去される。
二つの平和塔の間には、幻の平和塔があった。爆心地から撤去された平和塔を、仏舎利塔として再建させる計画だ。
二葉山の仏舎利塔とは違って行財政界が先頭に立ち、市街地東の比治山に巨大なタワー型の仏舎利塔を建てる構想を膨らませていた。しかし資金不足のため工事は進展せず、1968年に計画破棄が明らかになる。
この他にも、戦前軍用港だった宇品に近い皆実町には、何者かの手で日清戦争の凱旋碑から平和塔へと名前を変えられた記念碑が佇んでいる。
復興の象徴になれなかった平和塔
仙波さんは複数の平和塔を、戦後の広島が平和都市という抽象的な理念のもとで復興をせざるを得なかったがゆえの歪みの現れだとする。
「原爆で焦土と化した広島の復興案は当初、産業都市や文化都市など具体的な機能を重視する意見も少なくなかった。しかし国から特別な復興予算を引き出せる平和都市が選び取られ、特別法制定に向けた請願運動につながります。平和祭は国やGHQ、市民を始めとする国内外の人々から平和都市の信認を得るためのメディアイベントだったのです」
特に第1回平和祭にGHQ最高司令官マッカーサーのメッセージが寄せられたことは、戦後の混乱で平和を掲げにくかった時期に、大きな意味を持ったという。海外から注目を集めたイベントを彩る平和塔は、復興のシンボルと印象付けられた。
国への請願運動は勢い付き、1949年に平和記念都市建設法(平和都市法)が制定、住民投票でも賛成多数で施行される。
だが急速だったがための矛盾もあった。例えば住民投票前に行政が実施した大規模なキャンペーン。宣伝広告では世界から広島に集まる注目に応え、復興資金を獲得するためには、平和都市化が必要ということだけがひたすら繰り返される。
キャンペーンの予行練習かのごとく、国旗掲揚を許可したGHQに賛意を示すため、市民に日の丸掲揚を求める愛国運動も行われていた。
戦前の軍国主義に回帰する意図ではなかっただろう。重要なのは「平和都市とは何か」という中身が問われていなかったことだ。
平和塔に吊るされた平和の鐘も、旧海軍の払い下げ品だった。物不足のためやむを得ない時代だっただろうが、戦前との連続性は無視できない。この鐘は塔の撤去前に何者かに盗まれており、現存しない。
平和都市法が成立し、モダニズム建築家丹下健三が「平和を創り出す工場」という理念のもと設計した平和公園の整備が決まると、矛盾を抱えた平和塔は象徴から外れてしまうのだ。
幻の平和塔に託された近代の夢
しかし行財政界も市民も、異なる平和塔への夢は抱き続けていた。幻の比治山平和塔の計画は、1952年に世界仏教徒会議広島大会が開かれ、世界の僧侶がスリランカの仏舎利を携えて訪れたことから浮上する。
仙波さんは、この平和塔が近代科学技術への憧れを体現している点に注目する。当時のガイドブックには、地下2階地上7階の巨大な平和塔の完成予想図が描かれている。
豪華絢爛な広間や仏舎利奉安堂、展覧会場を設け、「釈迦第五の聖地」「不死鳥ヒロシマの灯台」をうたう金色の塔。厳かな慰霊の場よりも、外部に誇りたい観光施設を思わせる。
「近代科学技術が生み出した原爆に全てを破壊されながら、更なる近代化によって復興を遂げようとする。そこに恐ろしさを感じるのです」
1956年には平和公園で原子力の平和利用博覧会が、2年後には広島復興博が開かれる。それは軍都を平和都市に変えただけで、戦前期の博覧会と全く同じ近代化志向を前面に打ち出すものだった。延長線上に比治山の平和塔計画もあったわけだ。
一方で二葉山に残る平和塔の位置付けは異なっていた。同じ世界仏教徒大会を契機とした仏舎利塔でありながら、日本妙法寺が地元行財政界と連携することなく、1954年から独自に建設を開始している。
日本妙法寺は広島で原水爆禁止などの平和運動を展開していた。平和塔建設時の趣意書では、明確な近代文明批判のメッセージを打ち出していたという。
しかし戦前の二葉山には対空防御の高射砲台が置かれ、比治山は陸軍墓地や明治天皇の御便殿の地として知られていた。「被爆者の人体実験をしている」と批判されたABCC(原爆傷害調査委員会)があったのも比治山だ。平和塔の立地自体が、平和都市の文脈だけで説明できるものではなかったのだ。
「ありふれた」平和都市とは?
1960年代に入ると市街地のバラック撤去が進み、原爆ドームの保存が決定。平和公園一帯は観光客を集めながら聖地化の様相を呈す。その陰で、平和塔は忘却されていった。
そして平和都市にふさわしくない最後の存在として、各地のバラックを追われた人々が集住していた相生通りが「原爆スラム」と呼ばれ、クリアランスの対象となっていく。
「平和塔の背景を読み解くことで、広島が平和都市になったとも、かつては軍都だったとも、言い切れなくなるのです」
だからこそ、仙波さんは原爆投下という人類史上類を見ない経験をした広島を、あえて「ありふれた都市」と表現した。研究の末に出てきた答えだが、生まれ育った地元であるからこその実体験も影響している。
「被爆した祖母は8月6日の8時15分は必ずテレビを消していたし、メディアの原爆報道も同じ話に一元化されていくようで違和感がありました。オバマ大統領の来訪、昨年のG7サミットと、政治的に仕掛けられたイベントがあるたびに広島が注目を浴び、地元では歓迎と沈黙、そして少数の異論が上がる。その構図が戦後ずっと変わっていないと感じたのです」
「戦前の軍都も戦後の平和都市も、時勢に合った看板を掲げながら、目的は常に都市としての普遍的な成長にある。内実がどうこうよりも、どうにかして他都市と差別化し、国や世界の注目を集めて、人や投資を呼び込みたい。広島はそうしたどこにでもあるありふれた都市の性質を、体現し続けているのではないでしょうか」
平和塔が立つ二葉山からは、再開発が進む広島の市街地が一望できる。この都市はやはり普遍的な成長を目指し続けているのだろうか。著しく進む戦前戦後の忘却に抗って、8月6日を起点とする平和都市広島という前提を切り崩す。この本にはそのヒントが詰まっている。
参考文献・ウェブサイト
宇吹暁(1992)『平和記念式典の歩み』広島平和文化センター
中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター. "ヒストリー" 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターウェブサイト. https://www.hiroshimapeacemedia.jp/?cat=3923