【富田林市】富田林の一部が常陸下館藩(現茨城県)だった謎に迫る。龍泉寺の伽藍を再興した白木陣屋とは?
富田林の東側、旧かんぽの宿富田林(現:亀の井ホテル富田林)がある嶽山の中腹に龍泉寺があります。寺自体の歴史は千数百年の歴史があり、また美しい庭園も有名ですね。
ところでこの龍泉寺のあった旧龍泉村のあたりは、幕末の時点で意外な人が支配していたようです。それは常陸下館藩の石川藩主です。常陸国(茨城県)にいる大名が、なぜ富田林の一部を支配していたのでしょうか?その謎に迫ってみました。
龍泉寺の建物は、1275年に作られた金剛力士像(仁王像)が安置されている重要文化財の仁王門以外は、江戸時代に再興されたものです。
その背景にあるのは、南北朝時代の楠木氏や戦国時代の畠山氏が山頂の嶽山城を軍事拠点としたこと。龍泉寺もその影響を受けて、度重なる戦火で仁王門以外の建物や宝物が焼失しました。
様々な情報によれば、江戸時代に龍泉寺を再興するために、南河内あった白木藩が何度も寄進したそうです。この時名前の挙がった白木藩を調べると、いろいろ面白い事実が解りました。
結論から言えば、白木藩というものは実際には存在しません。ただし、白木陣屋は存在します。陣屋とは、江戸時代に城に代って大名が住んだ、あるいは代官所として代官に村を支配させた場所とあります。
白木陣屋は河南町にありますが、これには代官所としての役割があったとかで、それを支配していたのは石川という名前のお殿様です。
石川氏と白木陣屋の関係を調べると、石川総長(いしかわ ふさなが)という人物が登場します。
石川総長は、1605(慶長10)年に近江膳所藩主石川忠総の次男として小田原で生まれ、幕府の要職を歴任後、1651年に伊勢神戸藩1万石を立藩。
9年後には、幕府より大阪定番の役職を命じられたために、河内国石川郡と古市郡の一部を加増され2万石になります。
大名のイメージだと、加賀の前田とか薩摩の島津のように国持(県単位)を丸々支配するイメージがあるので、離れたところの領地とは不思議な気がしますね。
しかし外様の大大名ではない譜代の小大名は、石川総長(ふさなが)のように、支配地が別の場所に飛び地のようにあった事は普通のようです。
このときに、今の富田林市内の一部だった村も石川総長のものとなり、現在の河南町に当たる場所に白木陣屋という代官所を設けます。
白木陣屋の支配下に龍泉寺があり、古代から続く寺院ということで度重なる寄進があったようです。
神戸藩石川氏は3代続いたのですが、3代目の石川総茂(いしかわ ふさしげ)の時代、相続の際に弟に3000石を分与したために、1万7000石となりました。
1732(享保17)年に3000石が加増される事になり、同時に常陸下館藩に移封(いふう:領地代え)となります。
総茂は、三重県から茨城県に移ることになったので、三重の神戸藩の領地は手放して常陸国真壁郡に新たな領地をもらいます。ところが河内国石川郡の領地はそのまま。そのため白木陣屋は石川氏の代官所として幕末まで残ったようです。
こうして幕末明治を迎えますが、明治初年の旧高旧領取調帳によれば、石川郡のうち、以下の村は常陸下館藩石川氏の所領だったようです。
廃藩置県を得た後、1889(明治22)年の町村制施行により、旧下館藩石川氏の領地が次のように振り分けられています。
- 東條村(現:富田林市)← 竜泉村、甘南備村、(他:佐備村)
- 白木村(現:河南町)←北加納村、南加納村、白木村、平石村、他
- 中村(現:河南町)←馬谷村、中村、他
- 河内村(現:河南町)←上河内村、他
- 千早村(現:千早赤阪村)← 吉年村、千早村、中津原村、小吹村、東阪村
- 赤坂村(現:千早赤阪村)← 二河原辺村、水分村、桐山村、他
龍泉寺は庭園が有名ですが、次の機会に龍泉寺に参拝に行く際には、寺の再建や白木陣屋のことなどの歴史に、思いをはせてみるのもよさそうです。
龍泉寺
住所:大阪府富田林市龍泉888
電話:0721-34-3134
入山時間:9:30~17:00
入山料:中学生以上300円、小学生150円
アクセス:近鉄富田林駅から金剛バス、龍泉バス停下車徒歩20分
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