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新国立競技場と2020年東京五輪。共通する問題点はメッセージ性の低さにある

杉山茂樹スポーツライター

20世紀の五輪はどうあるべきか。2020年東京五輪に何を期待するか。先日放送されたNHKBSの討論番組「グローバルディベートWISDAM」では、五輪をテーマに議論が展開された。

討論に参加した人は、為末大さん以外、すべて外国人。彼らのやりとりを聞きながら思ったのは、スポーツをこうした哲学的な側面から語ろうとする人が日本に少ないことだ。いるのかもしれないが、メディアを通して広がりを見せている様子はない。

自分の周りを見渡しても、スポーツ関係者は多くいるはずなのに、その手の話で盛り上がることはない。話の大半を占めるのは競技にまつわる話。2020年東京五輪についても、メダル話ばかりしようとする。それに経済効果の話を加えれば、すべて尽きる。そう言っていい。

これらはすべて日本人向けの話。内輪の話だ。世界に向けて何を発信したいか。どんなメッセージを届けたいか。問われているのはそれだ。「お・も・て・な・し」の心と、交通機関のアクセスの良さと言われても、インパクトの弱さは否めない。世界性、発展性に富むコンセプト、テーマ、メッセージが乏しいように思う。

なぜ、2020年にわざわざ東京で2度目の五輪を開催するのか。したいのか。

1964年の大会は、戦後から復興を遂げた東京を世界にアピールすることが最大のテーマだった。それが世界の人々をも勇気づけることになったと言われている。では、1998年長野五輪のテーマは何だったのか。何もなかったと記憶する。

W杯は夏季五輪と同等、あるいはそれ以上の規模の大会だ。2002年大会は韓国と共催だったとはいえ、その1ヶ月間、世界の人々は日本に目を凝らすことになった。

だが、1964年東京五輪以来の世界的ビッグイベントを開催しているという自覚を持った日本人は少なかったと思う。世界に対して何を発信するべきかなどという話も、最後まで表に出ずじまいだった。例えば、去年、流行語大賞の一つに選ばれた「お・も・て・な・し」は、なぜ98年、2002年に流行らなかったのか。不思議だ。

東京は数ある候補の中から選ばれた都市だ。「ロンドンの次は東京の番ですよ」と指名された世界の代表として、どれだけ「良いこと」が言えるか。やりたいと言ったのに、言うべきことはいまだ見つかっていない。そんな感じだ。98年、2002年を例に出せば、そうした認識さえ持ち合わせているように思えない。

スタジアムは、開催国の「拘り」を最も表現しやすい、メッセージ性に優れた建造物だ。しかし、残念ながら、ほとんどが新設だった2002年W杯用のスタジアムに、そうした何かを感じることはできない。無機質。精神性の低いものばかりだ。

決勝戦の舞台になった横浜国際(日産スタジアム)は、気がつけば建築が始まり、そして完成していた。何の議論もないまま、あのようなものが完成した。世界を見渡しても類のない眺望の悪さを、観衆は甘んじて受け入れることになった。

埼玉スタジアムも足を運んでみて初めて、そのアクセスの悪さに驚くことになった。試合終了後、1時間以上経っても帰りの電車に乗れない。都心に着く頃は真夜中で、そこから先のアクセスは終電に間に合わない。土地勘のない外国人の観衆は、とりわけ混乱に陥れられることになった。

日本を代表するこの2つの巨大スタジアム。少なくとも、そのホスピタリティはかなり低い。「お・も・て・な・し」の精神が反映されたスタジアムとは言えない。

しかし当時、メディアもファンもそうした不備を特別、追求しようとしなかった。そして不備が改められることもなく、いまに至っている。そのあたりに拘っている人、「スタジアムはかくあるべき」と言い出す人は決して多くない。

国立競技場は、いままさに取り壊しが始まろうとしている。ザハ・ハディッドさんがデザインした新国立競技場に生まれ変わろうとしている。そして国民もまた、それを抵抗なく受け入れようとしている。2002年W杯の反省が活かされている様子はない。2020年のメイン会場となる新国立競技場を通して、東京は世界に向かって何を発信しようとしているのか。

東京五輪のコンセプトと、それはまったく無関係なものに見える。

ザハ・ハディッド案を通して伝わってくるのは、斬新さ、奇抜さ、巨大さ、バブルっぽさになるが、それは東京五輪が世界に向けてアピールしたいことなのか。

スタジアムのような巨大建造物は、一度建てられたら最低でも50年その場に佇むことになる。つまり、神宮外苑の景観とマッチしている必要があるが、予定通りザハ・ハディッド案のスタジアムが完成すれば、そこは神宮の杜ではなくなる。それは「良いこと」なのか。世界に堂々と胸を張って自慢できることなのか。これからの社会のあるべき方向を示したものなのか。

建築家が建てる建造物はコンペを経て決まるのが習わしだが、新国立競技場にその方法は相応しいだろうか。民間の建物はそれでいいかもしれないが、日本の象徴となるナショナルスタジアムの場合は、もっと大きな議論が必要だ。ファン、国民とのコンセンサスは不可欠になる。

だが、その必要性に誰も気付くことなくコンペは行われ、作品が決定した。国民は完全に受け身に回ることになった、今回も。

これでは、自分たちが開催しているのだという自覚や誇り、そして参加意識は芽生えない。スタジアムそのものへの愛着も湧きにくい。

いまからでも遅くはないと言いたくなる。新国立競技場はあれでいいのか。議論するべきだと思う。それこそ「グローバルディベートWISDAM」のような番組で。

改修で僕は十分だと思う。東京五輪のコンセプトのひとつに「もったいない」が含まれるのであれば、改修、リペアこそがあるべき姿になる。世界をアッと驚かせるような鮮やかな改修で、今日的な建造物に蘇らせることは十分可能。世界にはそうしたサンプルがいくらでもある。この方法こそ、時代にも、日本にも適している。世界に対しても胸を張れるものだと思う。

新国立競技場と2020年東京五輪。共通する問題点はメッセージ性の低さにある。僕はそう思うのだ。

スポーツライター

スポーツライター、スタジアム評論家。静岡県出身。大学卒業後、取材活動をスタート。得意分野はサッカーで、FIFAW杯取材は、プレスパス所有者として2022年カタール大会で11回連続となる。五輪も夏冬併せ9度取材。モットーは「サッカーらしさ」の追求。著書に「ドーハ以後」(文藝春秋)、「4−2−3−1」「バルサ対マンU」(光文社)、「3−4−3」(集英社)、日本サッカー偏差値52(じっぴコンパクト新書)、「『負け』に向き合う勇気」(星海社新書)、「監督図鑑」(廣済堂出版)など。最新刊は、SOCCER GAME EVIDENCE 「36.4%のゴールはサイドから生まれる」(実業之日本社)

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