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台風発生が少ない令和5年9月、139年前の9月15日に神田祭を襲った「将門台風」

饒村曜気象予報士
将門の首塚(写真:イメージマート)

なかなか南下してこない秋雨前線

 9月14日は、津軽海峡から対馬海峡にかけて秋雨前線が顕在化してきました(図1)。

図1 地上天気図(9月14日9時)
図1 地上天気図(9月14日9時)

 このため、北海道~東北北部や中国・四国~九州では雨が降りやすく、雷を伴って激しく降る所もあり、長崎県では7時00分に線状降水帯が発生しました(図2)。

図2 長崎県で発生した線状降水帯(9月14日7時00分)
図2 長崎県で発生した線状降水帯(9月14日7時00分)

 長崎県では平戸市で78.5ミリ、長崎市で70ミリの1時間雨量を観測しました。

 その他の地域では晴れ間もありましたが、暖かくて湿った空気の北上によって雲が広がりやすく、所によりにわか雨や雷雨がありました。

 秋雨前線を挟んで北に位置する北海道では秋が訪れ、秋雨前線の南に位置する関東から西日本はまだ夏の様相ということができそうです。

 この秋雨前線は東北南部くらいまでしか南下せず、しかも衰弱する見込みですので、関東から西日本の夏の様相は続きそうです。

記録的な残暑

 今年7月以降続いていた記録的な暑さは、9月に入っても続いています。

 台風13号の北上により雨が降った9月8日頃には、一時的に気温が下がりましたが、厳しい残暑が続いています。

 9月14日に全国で気温が一番高かったのは、埼玉県・さいたまの35.0度で、最高気温が35度以上という猛暑日に唯一なりました。

 また、最高気温30度以上の真夏日を観測したのが437地点(気温を観測している全国915地点の約48パーセント)と7〜8月の最盛期に比べれば大きく減っていますが、最高気温25度以上の夏日を観測したのが735地点(約80パーセント)もあります(図3)。

図3 夏日、真夏日、猛暑日の観測地点数の推移(5月1日~9月14日)
図3 夏日、真夏日、猛暑日の観測地点数の推移(5月1日~9月14日)

 猛暑日は、9月16日の土曜日は15地点程度、17日の日曜日は20地点程度と見積もられていますので、今週末は記録的な暑さを観測しそうです。

 真夏日は、9月15日は460地点程度、16日は560地点程度、17日は620地点程度と見積もられていますので、しばらくは、全国の約半分の地点で厳しい残暑の見込みです。

暑さも彼岸の中日(秋分の日)まで

 「暑さ寒さも彼岸まで」という慣用句があります。

 冬の寒さ(余寒)は春の彼岸の入りの頃(3月20日前後)まで、夏の暑さ(残暑)は秋の彼岸の入りの頃(9月20日前後)までには和らぐという意味です。

 今年の秋の彼岸の期間は、9月20日から26日までですので、彼岸の入りが9月20日、彼岸の中日(ちゅうにち)が9月23日で(秋分の日)ということになります。

 今年の日本列島は、9月になっても、日本の東海上の太平洋高気圧におおわれることが多く、寒気が南下して秋雨前線がなかなかできず、できても南下してきませんでした。

 そして、彼岸の入り(9月20日)までは、暑さが和らぐということはなさそうですが、9月22日は各地で最高気温が30度を下回り、彼岸の中日(9月23日の秋分の日)までには暑さが和らぎそうです。

 記録的な暑さの今年は、「暑さは彼岸まで」にはならなそうですが、「暑さは彼岸の中日まで」にはなりそうです。

 東京の最高気温は、6月下旬以降平年値より高い状態が続いており、7月10日に36.5度を観測し、今年初の猛暑日となり、猛暑日を観測したのは22日に及びました。

 これまでの東京の猛暑日の年間日数は、去年、令和4年(2022年)の16日が最多ですので、これを大幅に更新しました。

 また、今年の最高気温は7月26日の37.7度ですが、最高気温が平年値より高い状態は、台風13号が接近して雨となった9月8日に25.2度を観測するまで続きました(図4)。

図4 東京の最高気温と最低気温の推移(9月15日〜9月21日は気象庁、9月22日〜30日はウェザーマップの予報)
図4 東京の最高気温と最低気温の推移(9月15日〜9月21日は気象庁、9月22日〜30日はウェザーマップの予報)

 さらに、今年の真夏日日数は、9月14日までで82日となり、これまでの記録71日を大幅に超え、さらに更新すると思われます。

 熱帯夜日数(最低気温が25度以上の日を熱帯夜の日として集計した日数)については、平成22年(2010年)の56日に次ぐ2位の52日となっていますが、この記録は更新できなそうです。

 東京でも、「暑さは彼岸まで」ではなく、「暑さは彼岸の中日まで」にはなりそうです。

令和5年(2023年)の台風

 日本列島は、記録的な暑さとなりましたが、夏の象徴である台風の発生数は平年より少なくなっています(表)。

表 令和4年(2022年)と令和5年(2023年)の台風発生数と平年値(接近は2か月にまたがる場合があり、各月の接近数の合計と年間の接近数とは必ずしも一致しない)
表 令和4年(2022年)と令和5年(2023年)の台風発生数と平年値(接近は2か月にまたがる場合があり、各月の接近数の合計と年間の接近数とは必ずしも一致しない)

 現在、沖縄の南に熱帯低気圧がありますが、周辺部に発達した雨雲をもっておらず、まもなく消滅する見込みです。

 沖縄の南の熱帯低気圧以外には、熱帯低気圧が発生しておらず、しばらく台風発生はなさそうです。

 9月末までの平年の台風発生数は18個から19個ですので、平年より少ない発生ペースです。

 これは、エルニーニョ現象が発生しているときの台風傾向です。

 今年は、春からエルニーニョ現象が発生していますが、エルニーニョ現象が発生すると、台風の発生数は減りますが、日本からより離れた海域で発生することが多くなることから、暖かい海面から水蒸気の補給を受けて発達しながら日本に接近する台風が増えるとされています。

 今年は、これまで関東への台風接近はなかったのですが、今から139年前の明治17年(1884年)9月15日、将門台風が上陸し、大きな被害が発生しています。

神田祭と平将門

 神田神社は、天平2年(730年)に創建され、祭神は大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)で、延慶2年(1309年)に平将門命(タイラノマサカドノミコト)が合祀となっています。

 平安時代末期に関東地方に覇をとなえ、天慶3年(940年)に没した平将門を鎌倉時代になって、霊を鎮め祀り、人々の苦難を救い災厄を除く守護神としたわけで、徳川2代将軍秀忠は武州の総社とし、江戸城下の総鎮守としています。

 神田祭は、神田神社の5月15日を中心とする祭りで、京都の祇園会、大阪の天満祭、東京の神田祭を三都を代表する三大祭とすることがあります。

 この神田神社の祭りは、もともとは、稲の収穫後の秋祭りで、9月15日(太陰暦)に行われていました。

 古い俳句で神田祭は秋を意味する言葉です。

 花すすき 大名衆を 祭りかな(嵐雪)

 明治6年(1873年)に太陽暦が採用されたため、以後は、9月15日(太陽暦)で行われることになりましたが、明治7年(1874年)9月に明治天皇の神田神社行幸に際して,明治政府が 「将門は朝廷に抵抗した」として干渉し、平将門を格の低い大社に移したため、神田ッ子は祭りをボイコットしています。

 ただ、明治17年(1884年)になると、当時の不景気を吹き飛ばそうと、維新以前の大江戸時代の神田祭に戻そうという計画が進められます。

 今と貨幣価値がまったく違いますが、神田の氏子500戸より当時のお金で平均5円、計25万円もの大金を集めたともいわれています。

 明治17年(1884年)9月15日3時、第1番大伝馬町、第2番新石町の山車が勢ぞろいし、ときを上げつつ繰り出したときに雨が降り出 し、風も吹いてきたためひき返しとなり、その後4時30分頃から雨勢が、9時頃から風も強まって祭りは中止となっています。

 そして、前に述べた経緯があったため、「祭りは平将門のたたりがあった」と言われたといいます。

 また、この台風を将門台風と名付けられています。

 明治17年(1884年)9月16日の時事新報(主幸は福沢諭吉)は,次のような記事を載せています。

引用:明治17年(1884年)9月16日の時事新報

将門様の衝立腹……我300年鎮守の御恩を忘れ将門ハ朝敵ゆえに神殿に上べからず……よしよし今にもあれ目に物見せて呉んずと時節を待つ甲斐もなく隔年の祭礼は子供だまし 神力を費やす値打もなかりしに 今日という今日ころは大江戸の昔に劣らむ大祭礼待設けらる 将門様は時こそ来れりと日本国全州より数多の雨師風伯を駆り催し 大事の十四日の宵宮よりして八百八町を荒れ廻りて折角の御祭りをメチヤメチャに致されたるなり 一寸の虫にも五分の魂あり 況んや将門大明神様をやウカウカ朝敵呼ばわりして跡で後悔し玉ふなと…

将門台風と平将門の復権

 神田祭りを襲った将門台風ですが、9月15日10時頃に東海地方に上陸し、関東地方を速い速度で横切って、同日夜には三陸沖へと抜けています(図5)。

図5 明治17年(1884年)9月15日14時の地上天気図(印刷天気図より)
図5 明治17年(1884年)9月15日14時の地上天気図(印刷天気図より)

 この台風による被害は、翌々日の17日に九州に上陸し、瀬戸内海から東海地方を襲った別の台風と合せて、死者530名などとなっています。

 海軍観象台では、最大風速は南々西の風82ノット(毎秒約44メートル)、最低気圧は28.829インチ(約976ヘクトパスカル)を観測しています(図6)。

図6 明治17年(1884年)9月15日の海軍観象台での観測記録
図6 明治17年(1884年)9月15日の海軍観象台での観測記録

 なお、この海軍観象台は、明治7年(1874年)7月に東京の芝・飯倉に作られており、気象庁の前身の内務省に東京気象台が設置された明治8 年(1875年)6月より1年早い創立です。

 明治初期の気象業務は、海軍の観象台と内務省の気象台が並立して始まりましたが、のちに、行政改革で海軍の気象業務が内務省に移管されました。

 明治17年(1884年)は将門台風だけでなく、8月25日に台風が九州に上陸(死者1798名などの被害)するなど、台風被害の多い年でした。

 そして,この年、東京気象台で毎日天気図が作られ、暴風警報が発表されるようになって2年目、また、天気予報が始められた年(6月より)でもあるなど、気象業務の最初の試練の年となりました。

 神田祭は、明治23~24年に全国で死者約3 万5 千名というコレラの流行以後、祭日を5月に改めたといわれていますが、私は,季節的に台風シーズンよりは、初夏のすがすがしい頃の方が祭りに適しているという理由もあったのではないかと思っています。

 ちなみに、末社に降ろされていた平将門ですが、降ろされてから110年後の昭和59年(1984年)、氏子の決議により第3祭神として主祭神に戻すことになり、遷座祭が盛大に行われました。

 なお、第2祭神は、平将門を格下の祭神にしたときに、常陸国大洗磯前神社より勧請した少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびすさま)です。

 平将門は、将門の乱を起こしたことで朝敵となり、戦死して京都で晒し首となりましたが、首だけが東に飛んで行って落ちた場所に作られたのが将門の首塚です(タイトル画像)。

 気象庁が大手町にあったころ、近くの将門の首塚に何度かお参りしたことがありますが、超一等地のビルに囲まれた異質の空間でした。

 気象庁が虎ノ門に移転し、再開発によって近代的な日本最大のオフィス街が誕生しても、将門の首塚の一角だけは大事に守られ、パワースポットとなっているとのことです。

 平将門は、今も昔とかわらず、人々の心のどこかに生きていると思います。

図1の出典:気象庁ホームページ。

図2の出典:ウェザーマップ提供。

図3の出典:ウェザーマップ提供資料をもとに筆者作成。

図4の出典:気象庁ホームページとウェザーマップ提供資料をもとに筆者作成。

図5、図6の出典:饒村曜(平成5年(1993年))、続・台風物語、日本気象協会。

表の出典:気象庁ホームページ。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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