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大谷翔平が本塁打王を獲得すると、思い出すのはやっぱり、あの人

横尾弘一野球ジャーナリスト
8月23日のレッズ戦で、44号2ラン本塁打を放った大谷翔平。(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 右ヒジ内側側副靱帯などを傷め、現地時間9月3日のオークランド・アスレチックス戦を最後に戦列を離れた大谷翔平だが、いよいよ本塁打王の獲得が現実味を帯びてきた。37本塁打で2位につけるルイス・ロベルトJr.(シカゴ・ホワイトソックス)は、9月22日のボストン・レッドソックス戦から残り9試合、35本塁打のアドリス・ガルシア(テキサス・レンジャース)も22日のシアトル・マリナーズ戦から残り10試合。44本塁打の大谷に追いつくのは、至難の業と言っていい。

 それにしても、大谷が44号2ラン本塁打を放ったのは8月23日のシンシナティ・レッズ戦で、今季の出場は135試合である。月間MVPに輝いた6月の15本塁打をはじめ、前半で30本塁打をマークしていたのが大きかった。

 大谷は6月30日のダイヤモンドバックス戦で30号に到達したが、これはロサンゼルス・エンゼルスの84試合目で、年間58発というハイペースだった。メジャー・リーグでは、2001年のバリー・ボンズ(サンフランシスコ・ジャイアンツ)が73本、1998年のマーク・マグワイア(セントルイス・カージナルス)が70本、アメリカン・リーグでも2022年のアーロン・ジャッジ(ニューヨーク・ヤンキース)が62本という途方もない数字を残しているが、先発投手として2ケタ勝利もマークしている上での打撃成績と考えれば驚くべき数字である。

 そして、今季の大谷のようにアーチ量産の記憶を辿っていくと、長年の野球ファンが真っ先に思い出すのは、1979年のチャーリー・マニエルではないか。

絶好調過ぎて狙われたとも……

 1963年に、大学への進学を断念してミネソタ・ツインズと契約したマニエルは、1969年にメジャーへ昇格したものの、なかなかスラッガーとしての本領を発揮することができなかった。そうした経緯で、1976年に海を渡ってヤクルトと契約する。1年目は11本塁打32打点と期待外れだったが、翌1977年に42本塁打97打点をマークすると、1978年は39本塁打103打点でヤクルトの初優勝と日本一に貢献した。ただ、スピーディな野球を目指した廣岡達朗監督は、193cm・89kgで34歳のマニエルに対する評価が低く、交換トレードで近鉄へ移籍することになる。

 その近鉄で指名打者を任されると、守備の不安からも解放されたマニエルは打ちまくる。48試合を終えた時点で24本塁打は、当時の130試合制でも65本ペース。王 貞治が持つ55本塁打の日本記録(当時)も破るのではないかと期待を集める。

 だが、6月9日のロッテ戦で八木澤荘六から顎に死球を受け、粉砕骨折で戦列を離れてしまう。修復手術を受けたあとは3週間の入院生活で、点滴と流動食しか取れない状態。マニエルは「好調だったから狙われた」と憤慨したが、八木澤はこれを否定した。

 マニエルは8月4日からベンチ入りすると、アメリカンフットボールのようなフェイスガードつきのヘルメットで打席に立ち、47試合で13本塁打を放ってシーズン37本塁打。阪急の加藤英司が打率364、104打点で二冠王に輝き、本塁打も猛追したものの35本で、何とか逃げ切ったマニエルは本塁打王を手にした。

フィリーズ監督として2008年のワールド・シリーズを制した際のチャーリー・マニエル。
フィリーズ監督として2008年のワールド・シリーズを制した際のチャーリー・マニエル。写真:ロイター/アフロ

 結局、マニエルは97試合の出場だったから、2.62試合に1本塁打というハイペースだった。ちなみに、今季の大谷は3.07試合に1本である。本塁打のペースは、2018年に横浜DeNAへ入団したネフタリ・ソトが、107試合で41本塁打をマークしたから、2.61試合に1本とマニエルを僅かに上回った。だが、インパクトという点でマニエルの打棒はファンの記憶に残り続けるだろう。

 1981年限りで帰国したマニエルは指導者となり、1988年にはクリーブランド・インディアンスで打撃コーチに。川上哲治が唱えたダウンスイングや、春季キャンプで実施される早出特打ちなどを指導に採り入れて実績を残し、2000年には監督に就く。そうして、2008年にはフィラデルフィア・フィリーズを率いてワールド・シリーズで優勝している。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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