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快挙まであと6人でなんと降板を直訴……石井一久、ヤクルト時代の逸話(その1)

楊順行スポーツライター
2005年、メッツ時代の石井一久(写真:ロイター/アフロ)

「代えてください」

 一瞬、だれもが耳を疑ったのではないか。

 1997年9月2日、横浜スタジアム。セ・リーグの首位・ヤクルト、これを3.5ゲーム差で追う横浜との一戦は、8回表終了時点でヤクルトが3対0とリードしていた。マウンドには、石井一久。当時23歳のサウスポーは、浮き上がるようなストレートと鋭い変化球、そして古田敦也捕手のリードで、そこまで横浜打線をノーヒットに抑えていた。

 快挙まであと6人、スタンドもどこかざわついている。だが……8回裏のマウンドに上がる前、石井はなんと、野村克也監督に交代を直訴するのだ。ノーヒット・ノーランといえば、当時でプロ野球史上65人目の大記録。そこへの挑戦権を自ら放棄するとは、前代未聞である。

「大したことじゃないですよ」

 というのは、そのころ取材した石井本人に聞いた言葉である。

「あの年は、(左肩痛からの)リハビリがプランでしたから。1日の球数は110が目安で、あの試合もそこに近づいたから交代を申し出ただけです。目先の記録にこだわって、本来のプランを見失っちゃ元も子もないでしょう」

 大物なのか、それとも……結局横浜戦は、「めったにできることじゃないから」という野村監督の説得もあって続投し、あっさりと大記録を達成してしまう。この97年は、規定投球回にはわずかに満たないもののシーズン10勝、防御率1.91。西武との日本シリーズ第1戦では、シリーズ記録の12奪三振で完封し、日本一に貢献した。のちメジャーでも39勝し、日米通算では182勝という大投手は、リハビリ段階でも涼しい顔でノーヒット・ノーランを達成してしまうのだ。

リハビリのはずが大記録とは……

 石井にとっては、これがプロ6年目。小学校時代、ぜんそくを治すために始めた野球だが、続ける気はなかった。千葉市・三輪台中ではサッカー部に所属も、「野球を続けなさい」と父にさとされ、週末だけクラブチームに所属した。そこでたまたまホームランを打ったのが、東京学館浦安高の関係者の目に止まり、そのまま進学した。石井は、こんなふうに振り返る。

「しゃかりきに、目の色を変えて野球をやってきたわけじゃないんです。興味がなかった。ただ微妙ですが、嫌いでもない。自分がホームランを打ち、人に認められたことが、エネルギーになったんでしょうね。それがなければ、高校で野球を続けていたかどうか……だから、野球をなめているな、と思うことがありますよ」

 つまりこの日本球界に名を残す左腕、転じて来季の楽天監督は、もしかしたら野球とは無縁の人生を送っていたかもしれないのだ。

 本格的にピッチャーになったのは、高校進学後だ。2年時には早くも140キロをマークし、プロから熱い視線を浴びたが、

「なにしろ、下地がなにもないわけですから、投手経験者とはスタートラインが違う。すべてが一からの勉強でした。1年で初めて登板した練習試合では、5回で二十何点取られて……オレはピッチャーに向いてないや、と思いましたけど、監督さんは"いける、いける"というのでその気になりましたね」

 ただ、その気になったとはいえ、すぐにひのき舞台に出られるほど野球は甘くない。3年の夏は古豪・銚子商に敗れてベスト16止まり。0対1の惜敗で、甲子園にはとんと縁がなかった。92年にヤクルト入りすると、シーズンこそ未勝利だったが、西武との日本シリーズ第3戦の先発に抜擢された。高卒ルーキーのシリーズ登板はなんと26年ぶりで、どれだけ期待されていたかがわかる。なにしろ、練習試合で20点取られてからたった4年目のことなのだ。

左肩痛で急ブレーキ

 2年目は3勝、3年目7勝と勝ち星を延ばし、4年目には13勝4敗で勝率1位のタイトルを獲得。球速も、当時としては破格の150キロに達していた。だが、シーズン途中から左肩痛に悩み、5年目はわずか1勝と小休止することになる。そしてその96年12月には、左肩手術のために渡米。97年のテーマが「リハビリ」だった理由は、ここにある。

 そのころの日本の投手はまだ、自分の体にメスを入れるのを避ける傾向にあった。成功例が、さほど多くなかったのだ。だが、石井はいう。

「どうも僕は、大ざっぱなんでしょうね。手術をせずにだましだまし投げるよりも、晴れ晴れした気分で投げたい、と。かりにリハビリで遠回りすることがあっても、それは手術しなくても同じかもしれないでしょう。それだったら手術、と吹っ切りました。不安はなかったです。それよりも……やっぱり困ったのは、言葉の問題ですよね」

 手術を受けた石井は、およそ半年、アメリカに滞在してリハビリを行った。その大半は一人きりで、インディアンス、あるいは傘下のルーキーリーグに加わり、黙々とトレーニングに励んだ。食事も、キャッチボールの相手さがしも自分でやらなきゃいけない。

「とにかく、身振り手振りでもなんでも、自分の意思を伝えるのに必死でした。それでもまあ、人間なんとかなるものですよ」

 この経験がのち、2002年からのメジャー挑戦につながっていくのだろう。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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