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羽生結弦の最大のライバル、ネイサン・チェンは「なぜ、あえて負ける戦略をとったのか」

野口美恵スポーツライター
(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

世界選手権3連覇のネイサン・チェン(米国)が、負けた。北京五輪シーズンの初戦となるGPスケートアメリカで3位となり、国際大会での連勝記録を13でストップさせたのだ。北米のメディアも大きく報じ、五輪シーズンの重圧を心配する声さえあった。しかし内容をよく見てみれば、これはチェンが北京五輪の金に向けて、あらゆる角度からアプローチしようとしている「テスト」に過ぎないことが分かる。考えるべきは「なぜチェンは負けたのか」ではなく、むしろ「なぜ、あえて負けるような戦略をとったのか」だ。少なくとも3つの理由があるだろう。

実は「5種6本」は初挑戦、4回転ループの難しさ

まず1つ目として、フリーのジャンプ構成がある。チェンはこのスケートアメリカで、4年ぶりに4回転ループを入れた。この4回転ループというのは本当に厄介なシロモノで、その技術的な難しさは別の機会に説明するが、チェンにとっては5種類の4回転のうち最も苦手とするジャンプだ。

チェンは、15歳のときに4回転トウループを初成功。そのあと16歳までにサルコウ、フリップ、ルッツを成功させたが、ループは跳べなかった。「もともと僕はエッジ系よりもトウ系のジャンプが得意」というチェンにとって、アウトサイドエッジを使って跳ぶループ、そしてアクセルの2つが鬼門で、インサイドエッジを使うサルコウも注意が必要なジャンプだった。

4回転ループは、羽生が2016年に世界初で成功させ、チェンは18歳となるその翌年、USインターナショナルクラシックで初めて降りた。この成功で史上初の「5種類の4回転成功者」となったものの、なんとチェンが4回転ループを成功させたのはこの1度きり。平昌五輪のフリーでも「ルッツ1本、フリップ2本、トウループ2本、サルコウ1本」という構成で「4回転6本」を跳んで追い上げたが、やはりループは回避していた。その後も、「ループは一番安定しないジャンプ」とチェンは言い、あえて入れていなかったのだ。

そして昨季の世界選手権で、チェンはフリーで「4種類5本」の4回転をパーフェクトに降りて優勝。さらなる高みを目指すとすれば、現状ルールでは、ループを入れた「5種類6本」しかない。五輪シーズンに「現状維持」を続けるのではなく、新たなモチベーションを設定するのは、アスリートとして当然のことだろう。

そしてスケートアメリカのフリーを振り返ってみると、5種類6本の4回転に挑み、冒頭の4回転ループは成功。ところが、直後の4回転ルッツが2回転になり、4回転サルコウも2回転になった。

しかし4回転ループの特性を考えると、この結果はまったく驚きがない。ループは5種類の4回転のなかでも、もっとも「自分で回転を作る」という感覚が必要になるジャンプ。トウ系ジャンプのように、トウを軸にしてもう片方の足を滑らせると自然に回転力が起きるのとはコツが違う。つまり4回転ループを跳んだ後に、他の種類の4回転を跳ぶには、回転のかけ方やタイミングの感覚を切り替えなければならないという、難しさがある。そのためチェンが1度だけ成功させた2017年のUSインターナショナルクラシックでも、4回転ループの後は、4回転ルッツ1本だけの構成にし、他の4回転への影響を最小限にとどめていた。

そういった意味で、チェンが4回転ループを含めた「5種6本」に挑戦するというのは、初めてのこと。4回転ループを成功させることに集中したのであれば、他のジャンプの感覚に狂いが出たのは、当然のことだろう。

「僕にできるのは、前を向いて進んでいくことだけ」と試合後に語ったチェン。あくまでも初戦は「テスト」だった可能性が高い。次戦以降、割り切ってループを外してくるのか、またはループを含めた6本に挑戦する楽しさを取るのか。いずれにしても北京五輪当日になれば安全策にシフトチェンジもできる。その作戦が見える「4回転ループを入れた6本」だった。

ショートは「ネメシス」再演と、メロウな曲

そして2つ目に気になったのはショート。まず選曲が驚きだった。平昌五輪シーズンに使った「ネメシス」をプログラム後半に使ったのだ。ジャンプ3本が終わるまでは、同じ歌手の曲「Eternity」を使い、最後のコレオシークエンスで「ネメシス」の再演へと繋げる。平昌五輪ではショートでミスを重ねて17位発進。「スケート人生で一番の衝撃」となった曲を入れるには、相当の覚悟があっただろう。ネイサンは選曲についてこう語っている。

「僕はこの五輪シーズンに、(4年前のショートの歌手である)ベンジャミン・クレメンシスに戻ろうと決めていました。『Eternity』の曲は最高だと思って選びましたが、全体的にメロウで、僕が求めるエネルギーにぴったりと合うものではありませんでした。それでちょっと遊び気分で『ネメシス』をかけてみたら、これは面白いんじゃないかということになりました」

ベンジャミンに戻ると決めていた、ということは、“4年前のリベンジを同じ歌手の曲で果たしたい”という強い決意に他ならない。

ところがネイサンの説明通り、「Eternity」はメロウな曲で、BPMも50前後と、テンポがかなり遅い。「ネメシス」や「キャラバン」のようなビートの強い曲で、バシッとジャンプを合わせて跳んできたチェンにとっては、流れを重視する曲調のなかでジャンプを跳ぶのは、タイミングが取りにくい可能性がある。本番は珍しく4回転ルッツもフリップもミスをしたが、6分間練習ではジャンプを降りており、チェンの技術が落ちたわけではないだろう。

こういった選曲とジャンプの関係を、チェンはよく理解している。スケートカナダには間に合わないとしても、北京五輪までに曲のテンポを変更したり、編曲を変えたりすることは可能。あくまでも今回は、新曲の「テスト」だったと考えられる。

無敗伝説の重圧を脱ぎ捨てた

さらに3つ目として、精神面の戦略も感じられた。平昌五輪以降の国際大会で無敗のチェン。もしこのまま今季のGP2戦とGPファイナルも優勝すれば、ますます「無敗伝説」の重みは増していく。

羽生のコーチ、ブライアン・オーサーはかつてこう語っていた。「五輪前年の世界選手権王者というのは、想像を絶する重圧になる。国際大会で連覇をすればするほど、『勝とう』というポジティブシンキングではなく、『勝たなければならない』というネガティブシンキングに変化していく」。その戦略のなかで、緊張しやすいハビエル・フェルナンデス(スペイン)が2017年の世界選手権で4位となったことを、「五輪前年の戦略的としては、良い結果だった」と語った。

それと同じことをチェンにあてはめれば、おのずと彼の気持ちも分かってくる。チェンも以前から「いずれ連勝記録というものは止まるもの。負けることに恐れはない」と語ってきたが、まさにその通りなのだ。「連勝ストップの日」を五輪にしないためにも、ここで一息抜いていくほうが、結果的には五輪の重圧を減らすことになる。

チェンが14試合ぶりに金を逃したこのスケートアメリカ。むしろ北京五輪の金に向かっていく22歳の、力強いしたたかさを感じた。

スポーツライター

元毎日新聞記者。自身のフィギュアスケート経験を生かし、ルールや技術、選手心理に詳しい記事を執筆している。日本オリンピック委員会広報としてバンクーバーオリンピックに帯同。ソチ、平昌オリンピックを取材した。主な著書に『羽生結弦 王者のメソッド』『チームブライアン』シリーズ、『伊藤みどりトリプルアクセルの先へ』など。自身はアダルトスケーターとして樋口豊氏に師事。11年国際アダルト競技会ブロンズⅠ部門優勝、20年冬季マスターゲームズ・シルバー部門11位。

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