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渡辺元智監督勇退。そこで「厳選・横浜名勝負」 その1

楊順行スポーツライター

1973年4月6日 第45回選抜高校野球大会 決勝

横 浜 000 000 000 12=3

広島商 000 000 000 10=1

佃正樹と永川英植の息詰まる投手戦は延長へ。終盤押し気味だった横浜は10回、永川のヒットのあと敵失と佃の暴投で1点をもぎ取るが、その裏広商も金光興二のヒット、二盗から楠原基が同点打とふたたび振り出しに。だが11回横浜は、二死一塁から富田毅が左翼ポール際にライナーをたたき込んで決着をつけた。

渡辺元(当時)が、母校・横浜の監督となったのは68年秋のことだった。

横浜高校の野球部自体は、45年の創部である。63年の夏に一度甲子園に出ているが、これは渡辺の1年あとの世代だ。渡辺たちの3年夏は、県大会の準決勝で鎌倉学園に敗れている。渡辺は卒業後、神奈川大に進学。だが肩を痛め、2年の途中で野球を断念した。渡辺はいう。

「プロ野球選手という夢どころか、プレーすることさえままなりません。荒れましたね。車を乗り回し、酒を飲み、ケンカをし、大学も中退し……自暴自棄の日々でした。野球部のコーチをやらないか、と誘いを受けたのが65年。また野球ができる、という思いで引き受け、67年に監督になったわけですが、指導者としてはなんの理論も、経験もありません。ただやみくもに厳しい練習、日本一長い練習をやれば日本一になれる、というのが唯一の頼りでした。細かい技術以前に、スポーツの世界は根性さえあればなんとかなる、と。ですから“やっぱり渡辺じゃ(甲子園は)むずかしいな”、などといわれたこともありました。

私立高校の監督というのは、はっきりいえば自分が生活していくための職業でしょう。なんらかの実績をつくらなくては続けられないわけで、自分にとっては勝つことが大事で、選手の指導よりも結果を出すことばかりを考えていた時代です。とにかく、むちゃくちゃやりましたよ。夜中まで練習したり、選手に苦痛を与えれば根性がつくと満足していました。負けたら"走っておけ"、たるんでいたら"正座しろ"。そんな指導でも、この時代はついてきたんですね」

柱は、エースの永川(故人)だった。新2年生だが、入学したときから変化球はからっきしでも、めっぽうボールが速かった。体は大きいがとにかくきまじめで、「走れ」といったらいつまでも走っている。あわてたのは、走っているうちにどてっと倒れたときだ。どうも、貧血気味らしい。

肉、キャベツ、ほうれん草……まずは、たくさん食べさせろと助言を受けた。だが、いまは強豪の横浜といえども、当時ささやかな合宿所の食事はせいぜい2品のおかず程度。永川だけにぜいたくをさせるわけにもいかない。そこで渡辺は、ランニングと称して自宅まで永川を呼んだ。そして肉を300、500グラム、キャベツもまるごと1個食べさせた。それでスタミナがつき、ようやくたどり着いた初めての甲子園である。

あの音、あの音がいまも耳に残っています

渡辺は開幕前、一人で球場の見学に行った。身分を明かすとグラウンドに入れてくれ、初めて甲子園の土を踏みしめた。外野のフェンス沿いをゆっくりと歩き、マウンドに立ってみた。ここが甲子園かぁ……。その初戦、小倉商との一戦は2対2のまま延長に入る。そして迎えた13回の裏だ。長崎誠の、サヨナラホームラン……。

「あの音……あの音がね、いまでも耳に焼きついているんです。長崎が、門田(富昭)君から満塁ホームランを打ってサヨナラ勝ち……サヨナラ満塁ホームランは史上初めてで、しかも現在まで唯一でしょう。木のバットの時代ですし、奇跡ですよ。その音が、いまも忘れられないんです。この1勝目、これがなきゃ私の監督人生は始まりません。私の甲子園のスタートだといってもいいでしょう」

永川の3試合完投、さらに準決勝の鳴門工戦では、またも長崎が決勝3ランを放つなどして、決勝の相手が広島商だ。この年は、とにかくどこの学校も打倒・江川卓(作新学院)に躍起だった。横浜にしても前年の秋、関東大会決勝で江川当たり、16三振を喫して完封負けしている。江川を打たなければ全国制覇はあり得ない、だから冬の間は打倒江川、打倒江川に明け暮れた。

当時はマシンがないから、18・44メートルの半分くらいの至近距離からピッチャーが投げて、江川の速さをまず体感した。畳を何枚も重ね、その上から投げさせて角度をつけた。特注の長くて重いバットで振り込んだ。結局、準決勝で広商が作新学院を倒すのだが、対江川の練習が、結果的にチーム力を養った。

「決勝ではね、広商というのはどんな細かい野球をやってくるんだろう、という興味はありました。結局4つ盗塁されていますが、バントを封じたり盗塁を刺したりもしているんです。それよりも、佃君。打倒江川を目ざしてきたものですから、どちらかというとウチは真っ向勝負のピッチャーがいいんですよ。ところが軟投派の佃君のうまさにやられて。9回には達川(光男)君のブロックで、本塁に刺されたりもしていました。

やっと10回に1点を勝ち越し、よしっ! と思ったんです。ところがその裏、レフトの富田が楠原君の打球をグラブに当てて落とし(記録はヒット)、同点。勝ったと思ったらエラーですから、ベンチに戻ってきたらぶん殴ってやろうと思っていたんです。時代ですね(笑)。ところがチェンジになり、手ぐすねを引いていたら、富田がなかなか近くに来ない。私が腹立ちまぎれに投げ散らかしたものを、整理でもしていたんでしょうか。ただ、そこで間が空いたことで、私自身ちょっと冷静になったんですね。"次に打てばいいじゃないか"と、自分でも不思議な言葉を富田にかけていたんです。

そうしたら……富田が涙を流すんです。ふだん合宿では、猫を洗濯機に入れたり、つかまえたヘビを切り刻んだり、全員とんでもなくやんちゃなヤツらなんです。たまらずに鉄拳制裁を加えても、2〜3時間正座させても、しらっとしている。そういうヤツが涙でしょう。鉄拳を覚悟していたのに、優しい言葉をかけられるなんて、思いもよらなかったんでしょうね。その富田が、11回のツーアウトから2ランホームラン……。

ふだん、ホームランを打つような選手じゃないんです。この大会ではそこそこヒットは打っていましたが、ポテンヒットがうまい程度で、それがポール際の最短距離とはいえホームランですから」

ここから渡辺は、少しずつ変わっていく。それまではスパルタ、スパルタの問答無用の指導だったが、一生懸命やっていて結果が出ないのを、試合中にあれこれいっても効果が出るわけじゃない。それよりも、選手をいかに気持ちよく打席に立たせるかが大切じゃないか。だから内心、「打てそうもない」と思っても「しっかり打ってこい」と送り出す。当時、29歳。この初出場優勝が、つごう50年近くなる渡辺の指導者人生を支えた。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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