「エリート」の不祥事が続く中、未来の「エリート」に伝えたいこと
いま、国民は、いわゆる「エリート」が起こす不祥事を連日のように目の当たりにしている。いま、未来の「エリート」に伝えたいことを掲載する。2015年10月に山形県立山形東高等学校(通称「山東」)の131周年式典にてお話しさせてもらった約1時間の講演内容だ。主な話題は、「なぜ勉強しなくちゃいけないの」「道徳って何だ」「問いを問いとして抱え続ける強さ」の3つである。
約2万字と長い。拙著『地方公立名門校』(朝日新書)にも付録としてほぼ同じ文章を掲載しているので、参照されたい。
<講演>
おおたとしまさです。今日、東京から新幹線で参りました。一三一周年ということで、本当におめでとうございます。一三〇年じゃないところがまたいいですよね。ちょっとキリを外しているところが、私らしくていいなと(笑)。
今日は「名門校に学ぶ利点と責任」という、凄く難しそうな話をしそうな感じですけどもね、安心してください、そんな難しい話ではございませんので。
まず「なぜ勉強しなくちゃいけないの」、次に「道徳って何だ」、最後に「問いを問いとして抱え続ける強さ」という、大きく三つのテーマで話をしていきたいと思っています。
さて、最初のテーマの「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」。人それぞれ答えがあればいいんだと思いますけども、基本的には、僕は、「勉強する」っていうのは、「本能」なんだと思いますね。人間は、空気を吸わずには、水を飲まずには、食べ物を食べずにはいられない。そして本当は、勉強もせずにはいられない生き物なんじゃないかと思っています。
大人になってから「もっと勉強してればよかった」と大概の人が思うんですよね。でも勉強ができる環境にいると「もういいや」と。よくあるじゃないですか、子供のころも「ご飯食べなさい」と言うと「やだ」なんてね。飢餓の国だったらあり得ない。そういうことが、勉強においてもあるのかな。
「本能」ってことは、それが自分にとって、人間にとって、理屈抜きで「必要である」。
これ、あくまで僕の考えですよ。これが正解って訳じゃなくて、僕がこう解釈していますっていう話です。
福沢諭吉がこんな話を残しています。「世界万物についての知識を完全に教えることなどできないが、未知なる状況に接しても、狼狽することなく、道理を見極めて対処する能力を発育することならできる。学校はそれこそをすべきところであり、ものを教える場所ではない」。
明治維新のころなんてまさにこの先どうなるかわからない世界なんですね。いままで幕府の中で偉そうにしていた人が、突然地位を失う。そういった状況では「こうすれば、こうなる」という経験則は通用しない。状況に応じたローカルな法則を自分で見出し、どう対処すればいいのかを自分で考えられなきゃいけなかった。そして、そういう能力を開発し、発育することが学校の使命であると、福沢諭吉は言っていたんですね。
教育という言葉は明治以降にできたんですね。「エデュケーション」にどういう訳語を当てるかってときに、いくつか案が出た中で、「教育」っていうのが採用された。それに対して福沢諭吉さんは猛反対したらしいんです。「教えるんじゃないだろ。子供たちの中にあるものを育てるんだろ。上から目線じゃダメだ!」って、すごく怒っていたらしいんですね(笑)。
その道理を見極めるには、勉強しなくちゃいけない。目をよくするために。もちろん、この場合の目っていうのは、視力じゃなくって、洞察とかそういった意味です。聞いたことあるでしょうかね、「虫の目」、「鳥の目」、「魚の目」って。
「虫の目」は物事をつぶさに細かく見る力。「鳥の目」は物事の大局を捉えることができる力。そして「魚の目」は流れを読む力。この三つの目を、勉強によって鍛える。そして初めて出会うような状況にも「あ、これはこうなってるぞ。細かく見たらこうだし、大局を見たらこうだし、流れていけばこう行くはずだ」というふうな認識をもって次に自分が何をなすべきかを判断する。そのための目を鍛える。そんな意味があるんじゃないかなと思います。
たとえば、理科を勉強すると、身の回りのことでも、色んな科学的な要素が働いていることがわかりますよね。社会を勉強すると、身のまわりで起きていることに色んな因果関係があるってことがわかる。で、国語は思考するときのオペレーションシステムですよね。
数学は、論理を組み立てる力、プログラミング力。あと、英語は色んな意味があるんですけど、もちろんツールとして外国の方とコミュニケーションを取るっていう意味もあるんですが、これね、僕がものを書いてるからそう思うんだと思うんですけど、少なくとも僕の場合は、英語を勉強したことによって、母国語である日本語の運用能力が飛躍的に上がったと思うんですよね。
日本語って、何も意識しなくても使えちゃうじゃないですか。でも英語を学ぶことによって「日本語ってこういう言語なんだ」っていうことが相対的にわかったの。で、それを客観的に使う、使いこなすってことができるようになってきた。外国語を学ぶことにはそういう意味もあるんじゃないかなって。
いわゆる学校の中の勉強って「いったい何の役に立つの」って疑問に感じることがあると思います。たとえば微分積分をやりましたよ、僕も一応。ですけど、僕、私大文系だったものですから、まあちょっとしかやってなくてですね、いまはさっぱり忘れているんですが、でも、そういう世界があったことは覚えているんです。そういうものに触れたっていう感触は、僕の無意識が覚えているんです。これは消えないんですね。
文字にできる情報は、忘れちゃうんです。だけども、その世界に触れた、こういう世界があったよねっていう記憶は、残っている。それが、実は重要。そういうのが合わさって目の解像度が上がっていく。あの天才アインシュタイン、彼が言ったことが面白い。「学校で学んだことを一切忘れてしまったときに、なお残っているもの、それこそが教育だ」と。いま僕が言ったようなことです。学校で習ったことを、一生全部覚えているなんてことはあり得ない。だけど、そこに触れたことがあるかないかって、大きな違いなんですね。
だから、いろんなものにタッチしてほしい。教科書を丸覚えする必要なんて全然ないんだ。そういう世界やそういうものの見方がある、ということをこの三年間、三年生はあと残りわずかかもしれませんけども、いろいろ触れていただきたいなと。
そうやって、色んなものを取り込めると、たとえば、僕が豚肉を食べたとする。豚肉を食べたときに、それが……あっ、この辺は牛のほうが有名か(笑)。僕がそれを口にしたときには、まだその牛肉は牛のDNAをもっているってことですよね。だけど僕がそれを食べて吸収すると、そのアミノ酸に僕のDNAが注入されて僕の骨や血になっていくでしょう。
そうやって知識も自分の体の一部になっていく。ただ単なる情報や知識が頭のどこかの引き出しに入っているだけでは自分のものになってないんですね。もう身体の中のどこに行ったのかわからない、自分の中のどこかに溶け込んでいる、そういうのを「内在化」っていいますけども、一度そうされたものはそのものだけを取り出すのは難しいんだけども、でも、自分の血となり肉となっている。そういうものをどんどん増やしていくと、それがいわゆる教養。教養は、見せびらかしたりするものではなくて、取り出せるようなものではなくて、アクセサリーのようなものではなくて、自分の骨身になっているもの。それが、究極的な「生きる力」。教養が目を鍛え、目が鍛えられることによって「生きる力」が鍛えられるんじゃないかな。
よく、「生きる力とは何か?」とか、グローバル社会になって「今までの教育じゃ駄目だ。これからはこんなスキルが必要だ」みたいな議論がされているんだけれども、「生きる力」はさっき福沢諭吉さんが言ったみたいなものですよ。たとえば、これから英語が話せなきゃいけないとか、プログラミングができなきゃいけないとかっていうのは、生きていくために必要な技術だったり武器だったりするもので、たとえば「これからの時代はどうなっていくのかな」「自分にはどのようなスキルが必要なのかな」「どういう知識を身に付けなければいけないのかな」ということを考えられることが「生きる力」です。
今、大人たちは、「これからの子供たちはこんなことしよう、あんなことが必要だ」とか言っているんですけど、それは「生きるためのスキル」でしかないですね。「生きる力」と「生きるためのスキル」は、似て非なるものなんです。必要なのは「生きる力」のほうなんですね。そしたら、自分にとって何が必要なのかがわかるはずなんです。
たとえば「英語が必要だ、プログラミングが必要だ、じゃあそれを教えよう」って言っているのは、「スマホにあのアプリを入れよう、このアプリを入れよう」みたいなもので、みなさんはスマホではないので、インストールされるのを待っているんじゃなくて、「自分だったらこういうアプリを手に入れなきゃ」というのを判断して、「どうやったらそれが手に入るか」を考えて、そしてそれを実行する。そういう力が、いわゆる「メタ認知」ですね。メタっていうのは「一つ上の次元」とかいう意味です。そういう力をもたなければならない。そういう力をいま、ここで鍛えるべきじゃないかなと思います。
「生きる力」があると、「自分が幸せになる」とか「目が良くなってそれだけより良く生きることができる」「世の中で有利に生きていくことができる」という面があるかもしれないんですけれども、自己実現のためだけに使うんじゃ駄目なんですね。人の役に立たないとね。来賓の方々の話にもたびたび出てきましたけども、人の役に立てないと、人間ってなかなか幸せになれないんですよね。自分のことだけ考えて成功しても、いつまでたっても不安なの。でも人間って、人の役に立ったときに、自分ってこの社会に居場所があるんだという安心感が得られるんですよ。そこに幸せというものが生まれてくるんですね。
もちろん、自己実現も必要。でも、自己実現だけでは、人間は幸せになれない。だからこの「生きる力」は、自分のためだけに使うんじゃなくて、世の中に還元するっていうのかな。
「生きる力」を身に付けたら、まずは自分のことに使っていいと思います、若いころは。
でも、ある程度自分のことができるようになったら、もう少し視野を広げられたらいいのではないかと思います。要するに人間というのは、互いに補い合う関係で、それを「相補的」と言いますね、そういう生き物なんですね。
逆にいえば、「生きる力」が強い人とか、凄くできる人っていうのは、何でもかんでも自分でできちゃう人ってわけではないんですよね。自分でできることは自分でやんなきゃいけないけど、自分にできないことは、素直に人に頼ることができる。これ、実はいちばん大事なんですね。
でね、今日はみなさんずっと座っていると腰も痛くなっちゃうと思うんで、ここでみなさんにスタンドアップしてもらって、みなさんがいかに相補的な生き物かというのを実験したいと思うんですけど。
「三秒で劇」という遊びをやってみたいと思うんです。じゃあみなさん、立ってください。二人一組で、どんな形でもいいんで。僕がこれからね、「○○と○○!」と言うので、一瞬で、三秒以内で、劇にしてください。たとえば一問目、いきますよ。三秒以内ですよ。
行きますよ。せーの、「ピッチャーとバッター!」。……そうそうそう、そういうことです。
(ゲーム)
……はーい、ありがとうございました。じゃあ着席してください。
みんな三秒以内でできたじゃない。すばらしい。何が面白いって、打ち合わせしたわけではないんだよね。「お前は水、お前は炎」ってやったわけじゃないんだよね。その場で、パッとアイコンタクトだけで、どっちかが水、どっちかが炎になったりするわけね。これが「相補性」だね。
難しく考えなくても、こうやって目的さえはっきりしていれば、自分が何をすべきかってわかってくるんだよね。社会の中でも難しく考えなくていい。「何をすれば自分は役に立つんだ」なんて考えなくていい。自分ができることをやれば、それを補ってくれる人、またさらにそれを補ってくれる人が現れてね、そして自分もまた誰かを補える。そういう相補性の関係が、自然発生的に生まれてくるんだよね。
さきほど「目を良くするためにみなさんは勉強するんだよ」って言いましたけど、教科書に書いてあることや先生が言葉を使って教えてくれることって、言語的なんですね。でもこれだけでは「生きる力」は完成しないんです。もう一つは、「非認知スキル」という、テストなんかでは測りにくい能力が、実は人生を大きく左右することがわかってきているんです。そしてその「非認知スキル」というのを、私は「家付き酵母」と表現します。
「家付き酵母」ってわかるかな。お酒とか味噌の。いまでこそ酵母の力によってそれができることがわかっているんですけれども、江戸時代はそういう知識はなかったんですね。
でも「ここでつくる味噌はおいしい」とか「ここでつくるお酒はおいしい」とかいうのがある。レシピを見てまったく同じものを別のところでつくろうと思っても、同じ味にはならない。昔は「神様が宿ってる」といわれたんですが、その正体って実は「家付き酵母」なんですね。建物の中にいろんな酵母菌が棲みついていて、これが味噌や醤油に風味を加えていたんですね。これがいわゆる、非言語的に「生きる力」に「風味」を与えるもの。
これが「家付き酵母」であり今日のテーマ「名門校に学ぶ利点」。
ここは名門校だと思います。一三一周年の名門校です。この学校にも「家付き酵母」というのが棲みついているんです。それは何なんだかよくわからないけど、別の言葉でいうと、名門校の「ハビトゥス」です。「習慣」とか「習わし」とか、そういう意味の言葉です。日本語にしづらいニュアンスをもっている言葉なんですけども、「名門校のハビトゥス」というものがあるんですね。この学校にいるだけで「山東らしさ」みたいなのが染み_付いちゃうっていうのかな。それが「名門校のハビトゥス」。
たとえば、結城豊太郎先輩っていう凄く偉大な先輩をこの学校は輩出しているんですけれども、今日、彼の話を聞いて、自分とはまったく関係のない昔のひとだと思いつつ、それでもその結城先輩が成し遂げた成功体験はこの学校の文化の中に染み込んでいますよね。
そして、みなさんの中にも、実は既に染み込み始めている。そう思ってないと思いますけど、みなさん気付いてないだけ。
この学校に古くから伝わる教育理念だったりとか、あるいは反骨精神だったりとか、もしくは自分に克つ力とか、自由を追い求める力とか、学校によって色々ですけれども、そういう、過去からずーっと引き継がれてきた価値観というのは、その学校の空気の中を漂っている。それを毎日吸っている君たちの中には、すでに「家付き酵母」みたいなのが棲みついている。この「非言語的なもの」を自分のものにできるっていうのが、実は、名門校に通っている人たちの利点、特権なんですね。
単に「レベルの高い授業を受けられて良いだろう」っていう話じゃなくて、言語化できないもの、得体のわからないものを吸い込むことができる。今日は私もちょっとだけお裾分けを頂いたかなと思うんですけど、みなさんは毎日吸うことができる。これが名門校に学ぶ利点。これは他では得られないんですよ、歴史のある学校じゃないと。できたばかりの学校にはないんです。
「染み込む」とか「吸い込む」とか言ったけど、もしかしたら違う表現のほうが正しいのかなと思ったりすることが実は最近あって、この学校に、波動みたいな、バイブレーションみたいなものが実際にあって、実はそれによって、だんだんみなさんの中の「生きる力」や「道徳心」が共鳴し始めるのだと表現することができるかもしれない。いずれにしても、そういう力がこの学校にはあるんじゃないかと思います。
色んな名門校に色んな「ハビトゥス」あるいは「家付き酵母」のブレンドがあるわけですね。この山東にも、何か「ハビトゥス」があるんだと思うんですね。言葉にしづらい、でも何か「山東らしさ」ってあるじゃないですか。卒業生同士、思いが通じ合うって、あると思うの。
これは、名門校の特権なんだけど、さっき言ったように、やっぱり世の中に還元しないといけないんですね。だから大人になってからでいいから、吸い込んだこの「家付き酵母」の力っていうのをできるだけ社会に還元する。それが「責任」なんですね。みんながみんなこの空気を吸い込めるわけじゃないんです。ここに来たくても、残念ながら入れなかった、不合格になっちゃった子ってたくさんいると思うんです。その子たちの分も、山東の「家付き酵母」を吸って、世の中でたくさん増やして、撒き散らしてほしい。それがみなさんの「責任」ということができると思います。
ここで別の意味での「責任」にも触れておきましょう。いま、日本の高校は大学進学を前提にしている場合が多い。そしていわゆる名門校の生徒がやっぱりいい大学に入っているというのも現実。そういう実績を出しているからこそ、名門校は一目置かれていて、多少羽目を外したことをしても許されてしまったり、受験には直接関係ない授業をやっても「それが山東らしさだよね」みたいに認めてもらえたりとかね。開成にしたって、凄いユニークな授業をいろいろやっています。だけど、突然東大に全然入んなくなったら、多分そうもいかなくなっちゃうんですね。いくらいい学校だとはいえ、やっぱりそこはバランスなんですね。つまり自分たちが本質的ないい教育を受けられているっていうのは、先輩たちがそういう環境を残してくれたからなんですね。
いい意味でのゆとり教育、本質的な教育をできる環境を残していくために、まあ、自分が行きたくない道に行く必要はないんだけど、自分が目指した目標を実現して、それが結果となって、実績となって、後輩たちへの置き土産にして、先輩からの恩を返す。それが、進学校、名門校とはちょっと違うニュアンスですけど、進学校にいる生徒さんの、もう一つの「責任」なんじゃないかなと思っています。
いいんだよ。名門校の中で好き放題やって。他人に評価されるなんてどうでもいいんだよって考えても。それはたしかにそうなんだけど、それでもしこの学校に対する社会的な評価が下がったりしてしまうと、後輩たちが本質的な教育を受けられなくなってしまって、この山東の文化や伝統が廃れてしまう可能性がある。そうしたら、社会的には大きな損失になる。
みなさんはこの学校に「入った」と思っているかもしれないけど、実はこの学校の「一部」なんだよね。「この学校」っていうのは、この場所にある「いま、ライトナウ」な存在ではなく、ずーっと一三一年間続いている、時間の流れも含めた四次元の存在なんです。
その中の「一部」になってるんだね、みなさんは。そのいちばん最先端にいる。植物でいうと成長点だよね。
そして山東の「ハビトゥス」がみなさんの中には既に入っていて。この「ハビトゥス」っていうのは、時限装置みたいなものなんですね。まだ自分たちがどんなハビトゥスを受け取っているかはわかんないと思う。それがわかってくるのは二〇年後、三〇年後だと思います。そのときに、「ああ俺、山東の生徒だったんだよね」ということが必ず大きな意味をもつ。それを明確に意識するようになることがあるはずです。特に自分の立場が不安定になったときこそ、この「名門校のハビトゥス」が発動するんですね。成功体験だったりとか、自由を追い求める力だったりとか、そういったものが折り畳まれているんです、「ハビトゥス」の中には。それを受け取っているんです。人生がストレッチをしているときに、この「ハビトゥス」がパパパって展開していくイメージかな。そういうものを、みなさんは既に受け取っている。
これからは世の中どうなるのかわかりませんが、みなさんには「ハビトゥス」があっていざっていうときにパッと自分を助けてくれるので、安心して、恐れないで、挑戦をしてほしいなと思います。そう言われてもピンと来ないと思うかもしれませんが、それはもうしょうがない。名門校の価値っていうのは、名門校の偉大さを理解できるほどに成長して初めて理解できるようになるからね。
たとえば地球が丸いことを人類が理解するようになったのは、人類がそこまで視野を広げることができたからですね。多分親の価値もそうです。自分が親の価値を計り知れるくらいまで大きくなって初めて親のありがたみがわかる。そして今日のこの「ハビトゥス」の話も、きっと皆さんのどっか無意識の中に残っていて、何かの拍子にね、僕の顔は思い出さなくていいので、思い出してくれたらいいんじゃないかな。
次のテーマです。「道徳って何だろう?」。これもね、僕の考えなので、みなさんも自分なりに考えていかなければいけないんですけど、自分が属している共同体と、そして個人も、当然大切ですよね。自分の自由にやりたいし、好きなことやりたいし。だけど、個人が好き勝手やっていたら、共同体は崩壊してしまう。逆に共同体の言いなりになってばかりいたら、個人は殺されてしまう。そのバランスがとっても難しい。
どうやってバランスをとったらいいんだろうかっていうときにうまく折り合いをつけるっていうのが、道徳とか倫理とかの意味なんじゃないかな。
共同体と個人と両方の価値を最大化する。「ここは個人のほうがちょっと抑える。だけど、ここは個人重視でいいかな」。そうやってグレーゾーンにおいて判断する気持ちが道徳心なんじゃないかなって思います。
一方で、「社会規範」って言葉、聞いたことあるかな。いわゆる「ルール」みたいなね。これは、「こういう状況においては、こういうふうに振る舞うことが、この個人と共同体の両方の価値を最大とするうえでは都合がいいよ」って経験則的集合知なんですね。だけどこの「共同体と個人の関係」っていうのは、常に変化しているはずなんです。学校の中にいるときと、外に出たときと、共同体とみなさん個人の関係は、変わっているはずなんですね。そこにおいて、道徳の基準も変わっているはずなんです。一日の中でどんどん変わるし、空間が変われば変わるし、固定化できるものではないはず。
とはいえ、毎回毎回判断していると間違うこともあるから、「最大公約数的な道徳に関してはルールにしちゃえ」っていうのが「社会規範」ね。いわゆる「出来合いの道徳」なんですよね。
でも、これって、変化したものに対しては対応できなかったりするわけですよ。社会規範ありきでそのルールに従うことが目的になってしまうと、おかしなことが起こってくる。
なので個別の状況によって判断できるようになるその判断能力こそが道徳心だったりするんですね。もしくは倫理観っていうかもしれない。先ほどの「生きる力」と「生きるスキル」の関係にも近いと思います。出来合いのものをインストールするのではなくて、その都度判断するということ、その能力こそが大事なんだよ。
社会規範というのは、ちょっときつい言い方をすれば、社会から押し付けられるものなので、一部の人々にとってもしかしたら窮屈なのかもしれない。たとえば「電車の中で静かにしましょう」っていうルールは子連れにはきつい、とかね。そこにはやっぱりルールだけじゃなくて道徳心が必要なの。人目を気にせず大声で泣くことは、ある場面では社会規範いわゆるルールに照らせばダメなのかもしれないけど、赤ちゃんならしょうがないよね。そういう臨機応変な判断ができるかどうか。そういう道徳心が豊かになれば、世の中には多様性がもたらされるのね。道徳心がなくて、何でもかんでもルールに当てはめようとするから多様性が認められなくなってしまう。気遣いがなくなってしまう。
ではここで二つ目のゲームにいきたいと思います。みなさんの多様性。さきほど二人一組になった方と、また組んでいただいて、これから僕が、一問目を先に言っちゃうと、「電車の中で老人に席を譲る」、それに対して、「ああそりゃあもうウェルカム。できるよ、それ。オーケー」っていう人は、手を頭に乗せてください。「んー、ちょっと微妙だけど、できなくはないかな、ソーソー」って人は、手を肩に。「そりゃ無理、絶対無理」って人は、手を下に下げて膝にもってく。「オーケー」、「ソーソー」、「インポッシブル」ね。というのをやってもらおうと思います。
さあ、立ってください。行きますよー。
(ゲーム)
……はい、オーケーです。ありがとうございました。ご着席ください。
二人組ってあんまり意味無かったね、まわりを見回せばいいので。要は、同じことでも、ひとによって感じ方が違うよね。「これ全然オーケーだよ」ってひともいれば「無理」ってひともいるわけだ。で、どっちが正しいわけではない。この「道徳」もひとによっても違う、状況によっても違う。一律で決められるものではない。そういったことを意識的に理解することで、多様性、「みんな違うからね」みたいなことに気付けるんじゃないかな。
だから「常に何が正しいのか、その状況によって判断をしなければいけない」と思います。道徳心をもつ者として。高い道徳心、高い倫理観をもったひとは常に判断をしなければいけない。面倒臭いの、これ。社会規範を決めちゃったほうが楽なの。だけど、それじゃあやっぱりうまくいかないことが多いんだよね。実際の世の中、ルールにおんぶにだっこだと、どっかに歪みが起きてしまう。だから常に考えなきゃならない。考えなきゃなんないってことは、毎回悩むわけですよ。つらいわけです。そのつらさを耐えられるひとというのは、きっと本当の意味での社会のリーダーになれます。これは僕の考え。
そういった社会のリーダーとしての責任、この世の中を良くするために、そして自分自身の自己実現を果たすために、どうしたらいいんだろうかということを常に悩み続ける。そういう責任をみなさんは、その気がなくとも、既に引き受けてしまったんですね、この山東に入ったことによって。それが名門校に入った人たちに課せられた使命、主だった仕事。
「山東のハビトゥス」の中にも「道徳心」とか「倫理観」みたいなものが含まれています。これ、ハビトゥスのものすごく重要な点。そういう高い倫理観や道徳観というのをもっているみなさんが、その力をフルに使って常に悩み続ける。「どうやったらこの世の中が良くなっていくんだろうか、そして、個人の幸せになっていくんだろうか」。そんなことを考え続ける責任、これがみなさんに課せられた「ノブレス・オブリージュ」。日本語にすれば「高貴なる責任」。
えーと、スパイダーマンの映画見たことある人。あっ結構いるね。あの中で、ま、何作もあるからね、ちょっとどれだかわかんないけどまあいい。あの中で、スパイダーマンの主人公のおじさんが亡くなっちゃうシーンってあるじゃない。強盗に襲われて、撃たれて。
で、「大いなる力には、大いなる責任が伴うんだ」って言って死んでいくんですね。スパイダーマンはとてつもない力をもっちゃって、だけど、その力の使い方がわかんなかったの。「じゃあ、この力をどうやって使えばいいんだろう」って苦悩し続ける。それがヒーロー。それが描かれているんだよね、実は。
そういう大きな責任、大きな力を、みなさんはもってしまったわけです。これをどう使うのか苦悩し続ける。そういう人生ってことです。えー、みなさんは、なので、自分が望もうと望むまいと必ずリーダー、社会のリーダーになっていく人たちだと思います。なので、その運命を受け入れて、ここで得たものを最大限にして社会に貢献してください。もちろん「自分の自己実現」、開始はそこからでいいと思います。
実は僕自身ね、元の会社を退職しているんですけど、それまではリクルートっていう名刺があったわけですよ。なんだけど、それがなくなって会社を出た瞬間、本当に空がすごく高く見えたの。これは僕の不安の裏返しでもあるんだよね。「こんな広い世の中に出てきちゃった、一人で!」っていうような。「もう大企業の看板はないぞ、これから、俺、どうする?」みたいな。だけどそれがね、同時にすごい心地良かったのね。まあ、性格的に合ってる、合ってないがあると思うし、別に会社を辞めることをお勧めするわけでもないんですけど、そういう人生が変わる瞬間にこそ、「母校のハビトゥス」が展開し始めるんだと思います。で、不安だったんだけど、でも、そこからすごく人生が楽しくなった。僕はそういう「ハビトゥス」になってたんだろうなって思います。
なので、繰り返しになりますけど、だからこそやっぱり恐れないで。恐れないで、自分がやろうと思ったことに挑戦してほしいと思います。で、それは、自分の人生を自分で決めるってことなんですね。そのときに初めて人間は本当の自由を感じる。「あれしていい、これしていいよ」って許可をもらうのは、与えられた自由だね。そうじゃなくて、自分で自分の人生を決める。それを自由に味わうことができるかどうか。
そのためにはどうすればいいと思うかな? 僕からのアドバイスは「決して他人のせいにしないこと」。それだけ。何があっても、「自分で選択したんだ。他人のせいにしない」という覚悟を決めた瞬間に、人は自由になると、僕は思います。だから、そういう点で、僕は自分を自由だと思っています。
次の話題に行きたいと思います。「問いを問いとして抱え続ける強さ」。今日いちばん最初にこの言葉を聞いたときには意味がわからなかったと思うけど、だんだんわかってきたかな。
「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」に正解はありません。「道徳って何だ?」にも正解はありません。いま、僕がみなさんにヒントを投げましたけども、みなさんの中には多分答えがあるんです。語弊があったかな。答えはあるんだけど、そこにはきっとたどり着けない。僕もいま、こんな話をしているけども、もしかしたら、来年には考え方が変わっているかもしれない。そうやって変化する。そういう「問い」が、常に僕の中にはあります。
「なぜ勉強しなくちゃいけないのだろうか?」「教育って何だろうか?」「学校には一体どのような価値があるのだろうか?」、そういうことを問い続けています。
二〇四五年、いまから約三〇年後にシンギュラリティがやってくるって最近聞いたことないかな。「特異点」ともいう。人工知能、要するにコンピュータの知能が、人間の知能を超えてしまう。総力として、全人類の知能を、全AIが超えてしまうというのが、三〇年後に来るんじゃないかっていわれています。これに関しては、たとえば、マイクロソフトのビル・ゲイツさんや科学者のホーキングさんなどが、「これは何が起こるかわからないぞ」「人類、もっと危機感をもったほうがいいぞ」と警鐘を鳴らしています。
三〇年後というと、私は七二歳。早死に家系だから生きてないかもしれない。でも、みなさんは四五とか四七とかだよね。大半の方が生きているでしょう。そのへんで、前代未聞のことが起こる可能性が高い。かつ、いま、資本主義社会も、もう限界を迎えようとしている。資本主義って要するに、お金を渡しておけば勝手に増えて元に戻ってくるという社会。要は利子だよね。でもいま、日本だってすごい低金利だよね。人から預けられても何にも金利がつかない。簡単に言えば、資本主義が行き詰まってるということだな。昔は大金持ちがお金を渡しておくと、一年後にはそれが、二倍〜三倍になって返ってくる。それが資本主義の始まりだね。そうやって市場を開拓していって、開拓すれば開拓するほど儲かって、金持ちは金を預けるだけで利益が乗っかって返ってくる。そうやって広まっていった。
その流れの中で、日本にも黒船がやって来た訳だ。捕鯨船の給油のためとか言ってたけど、だけど本当は、新しい市場として目をつけていたんだよね。東南アジアも全部そう。で、ちゃんとした国の体制を整えておかないと植民地化されてしまうと。向こうからしてみれば、「新市場に対等に話ができる組織体がなければ、もうじゃあ自分たちで乗っ取るしかないよね」ってなるからね。そうやって、たくさん植民地化されていった。
でも日本は賢かったよね、明治の人たちは。何が何でも国という体制を早くつくらなくては乗っ取られちゃうと。それが間に合ったから植民地にならなかったなんて説が、社会科の先生もいらっしゃると思うんで、勝手なことはあんまり言えないんですけど、そのような捉え方もされていますよね。
で、いま、そういう市場開発の余地が地球上になくなってきてしまっている。残されたのはアフリカだっていわれてますよね。このアフリカ開発が進んでいき、たぶんこれから三〇年の間には、もう終わるでしょう。一七とかそこらのみなさんが、四〇半ばになるころに、どんな世の中になっていくか、だーれもわからない。正解のない世の中。「未来がこうなるから、いまのうちにこんなことしておこう」なんていう逆算が成り立たないわけですよ。
だから、あの最初に言った、福沢諭吉先生が仰っている、「未曾有の状態に陥っても、そこで筋道を見いだして、次に何をすべきかを決めることができる」力を養うことが大事なんだよね。
ときどき雑誌やテレビのインタビューとか受けるんですけど、よく聞かれるのが、「これからはグローバル社会になって、先が見えない世の中ですよね。正解のない世の中ですよね。そんな世の中に子供を送り出す親としては、どんな教育をするのが正解なんでしょうか」っていうね。「正解がない世の中だ」って言ってるのに、「どうするのが正解なんですか」って聞いちゃう(笑)。「正解主義」が大人にこそ染み付いちゃってる。
保護者向けの講演会なんかでよく言うのは、「ダイエット本ってたくさんあるけど、どれも役に立たないでしょ。そんなうまい話があるわけないじゃない。『1週間で儲かるFX』とか『副業で一〇万円』とか『頭が良くなる育て方』みたいな本とかね、これ読んでたら駄目だよ、親が。子供たちが正解のない世の中で生きていけるわけないじゃん、親がそんな安易な正解ばっかり求めてたら」って冗談めかして言うんですけど、結構本気です。
「正解なんてないんだ」って前提。
どうしてもね、目の前に問題があったときに、これが正解なんじゃないかっていうようなものを捏造したがるんだよね、考えてるのつらいから。「これでいいんじゃね?」みたいな。そういうことあるでしょ。議論が行き詰まっちゃったりすると、「これでいいんじゃね?」みたいな空気になっちゃう。でもそういう、捏造された答えに飛びついちゃダメ。
いわゆる「批判的精神」をもってください。
何か困った状況があってみんなが頭を抱えているときに、ときどきね、「俺に任せろ、こうすればいいんだ」って言うひとが現れるんですよ。だけど僕は、そういうひとって眉唾だなって思っています。正解なんてあるわけないじゃない。あなた一人が答えを知っているなんて、確率的に考えたら、あるわけないじゃない。それは多分、穿った見方ですけども、本当のリーダーではなくって、子供っぽい意味でのヒーロー、「仮面ライダーになりたい」みたいな、幼稚さの表れかな。本当のリーダーとか、本当のヒーローっていうのは、さきほどの個人と共同体の狭間で常に悩んでいる人なんですよね。答えを出さないひとなんです。「うう、どうすればいいんだ、答えが出ないよう……」ってずっと悩み続けていて、泣きそうになりながら「みんなで考えようよ……」って言ってるひとが、本当の
リーダーなんじゃないかなと僕は思います。それでも諦めずに葛藤し続けるひと、その強さ。
問いを抱え続けるって、つらいんです。答えが出せないものをずっともってるって、嫌じゃないですか。なんだけど、それに耐えられるひとっていうのが、これからの世の中のリーダーになっていくんじゃないかなと思います。
みなさん「スター・ウォーズ」世代じゃないと思うんだけど、僕が子供の頃に第一作が出てきたのね。登場人物にヨーダっていうのがいて、一方でダース・ベイダーを育てた暗黒卿っているのね。アナキン・スカイウォーカーっていうのが、暗黒卿にそそのかされて、ダース・ベイダーになっちゃったの。その過程で、宇宙共和国で色んな問題があったときに、「どうしたらいいんですか?」と弟子から問われたヨーダは「うーん、わからない」と答えるんだ。でも暗黒卿は「こうすればいい。私に任せとけ。私の言う通りにしなさい」とアナキンに言って、アナキンもそれに飛びついちゃう。自分の愛する家族を守る方法を早く知りたくて。そうやって、ダークサイドに堕ちていってしまうっていうね。ヨーダはヨーダで「もっとあそこでヨーダがちゃんとしてれば、もっと早く勝てたじゃない」って話がたくさんあるんだけど、あんな見てくれでかわいいから許されちゃったっていうところがあるんだけど、まあ置いといて(笑)。
要するに「こうだ」っていうのにうかつに乗っちゃいけない。そうじゃなくて、常に悩み続けて、意見出し合って、世の中っていうのはつくっていくべきなんじゃないのかな。
でも、面倒臭いですよ。自分で決めちゃったほうが早い。そういうシーン、たくさんあると思います。優秀な人ほどそう思うと思います。「いちいちみんなの意見なんて聞いてらんないよ」みたいな。だけど、そこでやっぱり踏みとどまることができなくちゃ。踏みとどまることができて、みんなの意見を聞くことができる。それが、みなさんに課せられた一つの責任なんじゃないかなと思います。
僕はいろんな本書いてるんですけど、僕のポリシーとして、僕は、自分の本の中に答えを書かないことにしています。答えは読者の中にある。その読者が自分の中にある答えに気付いてもらうための材料とかヒントみたいなものをできるだけ書くようにしている。僕の考えは僕の考えで書きますけども、読んだ人が自分なりの思考を進めることができるような本を書けたらいいなと思って書いています。なので、本っていうのは、僕にとっては答えが書いてあるものではなくて、思考を補助するツール、もしくは、思考の伴奏者であるべきなんじゃないかなと思っています。でも、それに対して、いまはインターネットの中に無料の文章ってたくさんあるじゃない。
インターネットの文章と本の文章の違いって、なんだと思いますか。インターネットって調べれば、ほぼ無料で即座に答えらしきものが手に入るじゃないですか。スッキリする。その瞬間に「ああ、わかった」。でもこれってたとえていえば清涼飲料水。美味しくって、喉越しがよくって、スッと入ってくる。安く大量に、手軽に消費されることを目的にしている。たくさん見られるサイトは偉い。インターネットは偉い。だけど、本っていうのは、自分で噛み砕かなきゃいけない。飲み込むのも結構大変。だけど、一度飲み込めると、それが血となり肉となり、自分の体の一部となる。清涼飲料水は、おしっこで出ちゃうんですね。別に栄養にはならない。だけど、玄米とか、肉とか、くっちゃくっちゃ一生懸命噛み砕いて自分の体の一部にしていく。そういうのが、本。
本にもありますよ、インターネットみたいな本。最近の何十万部って売れている本の中にはあるんですよ。編集者がね、何の悪びれもなく言うんですよ。「読者っていうのは馬鹿だから、簡単に書かなくちゃ駄目なんですよ」みたいなことを。それで何十万部っていうベストセラーを出してる。「語彙レベルを落とせ、ボキャブラリーを減らせ、知性を落とせ」。僕はそんな本、書きたくないんでね(笑)。
脳みそに汗をかきながら読むような読書体験が、「問いを問いとして抱え続ける強さ」を鍛えることにもなるんじゃないかな。読書だけではないと思いますよ。いろんな行事とか部活とかを通して、「あのときどうすればよかったのだろうか」「みんなのことをどうやってまとめたらよいのだろうか」と考え続けることも、「問いを問いとして抱え続ける強さ」を鍛えることになるんじゃないかな。これこそが、正解のない時代を生きていくために必要なこと、ね。
テストでは、早く正解を出すことが必要かもしれませんけども、これからの社会のリーダーっていうのは、答えを出さない人。そういう人が求められてるんじゃないかなって思います。
ということでですね、みなさんには、たくさん悩んでもらおうと。悩むことは回り道をすることになるかもしれない。だけど、最短距離が必ずしも最善のルートではないですよね。
僕はたとえば、会社を辞めるとか、大学を変えるとか、いくつかの決断をしています。たとえば会社を辞めるってときは、子供がまだちっちゃかった。いろんなひとから、「まだ子供がちっちゃいのによく会社を辞められたね」と言われたんですけど、子供が生まれてなかったら多分辞めてなかった。平日は全然まともな時間に家に帰れるような状態じゃなくて、もっと子供と過ごしたかった。ライフスタイルを変えるために、決断をしたんですね。でも、そこに損得感情はなかった。
決断を、これからみなさんは、人生の中で、たくさんしていくと思います。そのときに、どっちの決断がいいのだろうか、AなのかBなのか、いろいろ比べると思います。それがパソコンだったら、スペックを見てみればいいですよ、値段を比べればいいですよ。でも、人生の決断はそうじゃない。
損得感情では、物事のごく一部の側面しか見えていない。そのごく一部だけで判断したら、誤ることが多い。むしろ大事なのは、決断を恐れないことです。決断の良し悪しは、決断したときの判断力と情報量が決めるんじゃなくて、決断した後の努力が決めるんです。
決断したあと、それをより良い結果に結びつけるための努力をしなかったら、それは駄目な決断だったことになってしまいます。逆に他人から見れば不利な決断をしてしまってもそのあとに「何が何でもこれを成功させるんだ」という気概で成功するまで努力したら、それは良い決断だったことになります。「決断の良し悪しはあとから決まる」ということを、今日は覚えて帰っていただけたらなと思います。
要するにね、すべてをね、どんな失敗があっても、すべてを糧にする力。これは、究極の「たくましさ」なんじゃないかな。そしてこれが、言葉では教えられないんですよね。
非言語的に伝わっていく。そういうまさに「ハビトゥス」が、非言語的に伝わる空間。そういう中をいま、みなさんは生きているんです。堂々と生きていっていただければ、みなさんの人生も豊かになるし、社会全体も豊かになると思いますので、どうか頑張ってください。どうもありがとうございました。
<質疑応答>
生徒:二年五組の○○です。「自分の決断を、他の人のせいにしないで、自分のせいにする」っていう言葉がとても印象に残ったのですが、でも同時に、「社会を引っ張っていく名門校の生徒としては、正解を出さないほうがよい」とも仰っていて、つまり、「自分のことは自分で勝手に決めて、まわりの人を考えるときは答えを出さないほうがよい」と聞こえたんですが、それで本当に社会は良くなるのでしょうか。私は、行動しないとよくならないと思ったので、どうして答えを出さないほうが社会を良くするのか教えてください。
おおた:ありがとうございます。素晴らしい質問だと思いませんか。で、その「正解を出さない」っていうのは、「行動するな」っていうことじゃないんですね。「常に状況は変化しますよ」と。「これでいいんだ」と思わない。結論を出さない。「答えを常にアップデートしていく」、そんな言い方にしたらいいのかしら。
そして、行動ね。行動を起こさないと、社会は変わらない。「行動したやつが偉い」みたいな話があるんだけど、でも本当にそうなのかなって。たしかに行動するって、かっこいいよね。そういう役割、行動が得意なひともいるよね。それはそれで社会の役割としては一つ必要。なんだけど、立ち止まって考えている時間は決して無駄じゃない。あえてうしろで控えていて、「ちょっと待とうぜ」と言うひとも必要だったりする。
いまのその質問の趣旨とはちょっと違うと思うんですけど、「行動しなければ変わらない」一方で、「行動しないことで世の中が良くなっていく」っていうことも、多分あるんだよね。最近の政治の状況なんか見てると、「待ったなしだ」とよく言われる。でも、それってパニックなんだよね。焦るから何かしたくなっちゃうっていうのがこの社会では目立つような気がしていて。
どんなに考えても正解が得られる保証はもちろんないけれども、少なくともみんなが納得していることが大事だよね。みんなが納得していれば、みんなが「自分で決めたことなんだ。ひとのせいにできないんだ」って思えれば、その決断を良かったことに、みんなですることができます。だけど、もし一部のひとが「こうするんだ。誰もやらないんだったら、私がやるよ」と言ってやっちゃって、まわりのひとたちがそれに納得していなかったら、その決断が良い決断になるようにみんなの力を合わせることができなくなっちゃうでしょう。決断を、最終的に良かった決断にすることができない。
そういうプロセスが面倒臭いんですよ。で、民主主義ってまさにそういうしくみ。早く決めることが偉いんだったら、独裁政治にすればいいんですよね。「俺が、私が、全部決めます」。早いですよ、そうしたら。でも、それじゃうまくいかないってことを、人類は学んできたんだよね。まったく行動しようとするひとがいなかったら、変わらない、もちろん。なんだけど、みなさんにはその両方の価値がわかるひとになってもらえればな、と。伝わりましたでしょうか。
生徒:はい、ありがとうございます。とてもよく伝わりました。「これが正解だ」って自分で決めつけてしまわないで「その時点で正解でも、決めたことを後々から修正できる勇気」っていうか、大勢の前で言い出しても、間違いは間違いだったって認められるようなひとになりたいなと思いました。ありがとうございました。
おおた:すごい。僕がだらだら話したことを、二〇秒くらいでまとめてくれちゃった(笑)。さすが名門校、未来のリーダー。ありがとうございました。