あの悲劇を忘れないために 写真で伝える史実 ホロコースト生存者を撮り続けるカメラマンが話題に
ホロコースト生存者が年々減少し、過去の記憶を伝える人が消えつつある。あの悲劇を忘れてはならない、過去の歴史を考えるきっかけになればと生存者を撮り続けるカメラマンが注目を集めている。
第2次世界大戦中、ナチス・ドイツに虐殺されたユダヤ人は600万人にも上るという。アウシュヴィッツ強制収容所解放から70年以上過ぎた今、ホロコースト(大虐殺)から一命をとりとめた生存者はいまだに過去の悲劇を背負いながら暮らしている。
「アナさんはアウシュヴィッツ強制収容所医師ヨーゼフ・メンゲレの人体実験台でした。当時のむごい体験はアナさんのその後の人生に大きな爪痕を残し、白衣を見るだけでも気分が悪くなり吐いたそうです・・・・」
カメラマンのルイジ・トスカノさん(46歳)は、ホロコースト生存者の残忍な体験談を静かに語りはじめた。
バーデン・ヴュルテンベルク州(以下BW州)マンハイム在住ルイジさんは2015年、ホロコーストで生き延びた歴史の証人たち125人を掲載した写真集『(あの悲劇を)忘れないために』(原題GEGEN DAS VERGESSEN)を上梓して旋風を巻き起こした。
ナチス政権体験者のポートレート写真を収集したこの本は、またたく間に話題となり、連邦大統領や外務省、BW州やマンハイム市など多方面からの支援を得るまでになった。
「このプロジェクトを始めた頃には想像できないほどの展開となり、驚いています。カメラマンとして写真を撮っているだけなのですが、反響の大きさには目を見張るばかりです。政府の重鎮に出会い、しかも協賛いただいていることが今も信じられない」とルイジさん。
「生存者のエピソードは貴重な証言ばかり。写真を撮るのが主目的ですが、まだまだ知られていない生存者のリアルな声も伝えていきたい」
アルコールや麻薬におぼれた路上生活者だった過去を持つルイジさんがカメラマンになるまでの経緯は後述するとして、まずは本書の中から4人の生存者を紹介したい。
ホロコースト生存者撮影プロジェクトの始まり
1)ポーランド エドワルド・マイェウスキーさん 生年月日不詳
1944年、ダッハウ強制収容所で強制労働。同年9月、マンハイム・サンドホーフェンへ移送され、自動車大手ダイムラ―・ベンツ社で強制労働に従事。同年12月東部のブーヘンヴァルト強制収容所へ。
2014年9月、ポーランドからマンハイムを訪れた生存者5人のうちの1人。ルイジさんのプロジェクト初期の写真。撮影は、エドワルドさんらが宿泊したホテルの一室で行われた。
撮影準備を始めると、エドワルドさんは持参した囚人帽を取り出した。強制収容所で着用したものだ。「帽子を見たときは、ゾクゾクしました。本当に始まるんだという気持ちで緊張しました」と、当時を振り返るルイジさん。
2)ウクライナ アナ・ストリシュコワさん 生年月日不詳
冒頭で紹介したアナさんは、両親と共にアウシュヴィッツ強制収容所へ。到着してまもなく、父母は殺害された。1~2歳だったと思われるアナさんは同収容所勤務の医師ヨーゼフ・メンゲレの人体実験台の一人として過ごした。
収容所解放後、アナさんは恐怖の体験から白衣を見ただけで怯えてしまい吐いてしまった。だが恐怖と向き合い内なる不安を乗り越え、アナさんは医師になった。
「おぞましい恐怖を克服した勇気あるアナさんの言動は今も忘れられない」とルイジさん。
3)オーストリア スーザン・セルンヤック・シュパッツさん 1922年生
1942年、母親と共にテレシアンシュタット強制収容所へ。43年1月アウシュヴィッツ強制収容所へ移送。45年1月、死の行進(健康や生命を顧みない強制的な移動)でラーフェンスブリュック強制収容所(ブランデンブルク州)へ。45年春、赤軍により解放された。
「過去を忘れてしまえば、繰り返すことになってしまう」
スーザンさんのこの言葉は、あの悲劇を忘れないために生存者を撮り続けるルイジさんの原動力となっている。
4)ウクライナ マリア・ナサレンコさん 1924年生
詳細は明らかにされていない。過去の体験を今まで一度も話したことのなかったマリアさんは、親戚一同30人を前に告白した。
「ルイジ、家族に話をする機会をつくってくれて感謝している」と言い残し、その後マリアさんは亡くなった。
生存者は過去の悲劇を語ろうとしない。口を割らないのは自分自身を守るためで、過去に対して壁をつくっているようなものとルイジさんは語る。
本書には125人の生存者を掲載。過去の体験を詳しく話してくれる人、あまり話たがらない人、匿名を条件にと撮影に応じてくれた人など様々。これまで266人の生存者を撮った。今後、2冊目の本も出版予定だ。
施設そして路上で過ごした青少年時代
世界に散在する生存者の撮影に奔走するルイジさんだが、ここに至るまでの道のりは決して平坦ではなかった。
父親は1970年代、イタリア・シシリアからやってきた外国人労働者。父母はラインランド・プファルツ州マインツで生活を始めた。
「両親は新地での生活に慣れるのに精いっぱいだった。ドイツ生まれの子供7人を養うのに追われ、ドイツ語を学ぶ時間も金銭的な余裕もなかった。そのため父は、より良い報酬を得るための転職もできないままジレンマに陥り、アルコールにおぼれ暴力をふるうようになった。
そんな家族を見かねた地元青少年局は、当時11歳だったルイジさんを近郊の青少年教育施設に送った。
「施設と聞くと、暗いイメージを持つかもしれません。でも係員には大変親切にしてもらい、施設の世話になってよかったと思ったくらい。楽しい思い出が一杯あります」
16歳の頃は、青少年助成支援を得て、職業訓練や研修を重ねた。多感な年齢を迎えたルイジさんは、まもなく路上生活を送るようになり、麻薬やアルコールにも手を出した。だが、このままでは長く生きられない、前向きになるべきと一念発起。麻薬セラピーを受けて路上生活から脱出した。
「あの頃は自分の人生で忘れたい時期」とルイジさん。
その後、いくつかの仕事を経て、現在の居住地マンハイムにたどり着いた。ここで生きるために窓拭き、ドアマン、屋根職人など何でもした。
カメラがあれば写真は撮れると思った
そんなある日、ルイジさんは電化製品店でバーゲン品のカメラを目にした。26歳のことだった。カメラがあれば写真は撮れると思いその場で買い求めた。早速撮り始めたものの、最初のうちは目も当てられないひどい出来だった。
「バーゲン品だったので返品もできないし、こりゃあ撮るしかないなと思ったんです」
まもなく地元の市民講座で写真撮影を受講した。
「初歩コースが終了すると、君は才能があるから次のコースをとったらと講師に勧められました。でも、受講生を集めるための誉め言葉なのでは?と本気にしませんでした。お金もなかったし、次のコースは受講せず、写真を撮りながら技術を磨いていきました」
そうこうしているうちに、かって窓拭きをしたバーから声がかかり、ルイジさんの写真を店内に飾りたいと連絡があった。金銭的に余裕のない大学生たちのポートレート撮影も受けた。音楽グループのコンサートツアーに同行し、写真を撮ったり舞台裏の手伝いなど何でもやった。
「そのころの6年間は、お金がなくて医療保険に加入できなかった。病気になった時は、写真を撮ることを条件に治療してもらっていたんです」
イラン出身の移民アリとの出会い
2013年のある日、偶然となりに居合わせたイラン人がタバコの火を持っているかと話かけてきた。これを機にルイジさんはアリと親交を深めるようになった。
アリの住むマンハイム移民収容所に連れて行ってもらった。そこでは移民申請認可を待つ100人が生活していた。
「自分ももともと移民家族の出身ですし、かつて過ごしたマインツでの生活やドイツ語を理解できなかった父、そしてその後の自分の生活などが収容所で目にした人たちとオーバーラップし、彼らを撮りたいと思い始めた」
写真は地元消防署の外壁で展示することになり、大きな注目を浴びた。そしてフィードバックは思いのほか好評だった。
「顔は多くのことを語ります。もともと顔を観察するのも好きだったので、これを機にますます人物撮影に興味を持つようになりました」
マンハイム近郊ラーベンスブルクにあるメルセデス・ベンツ博物館で、オールドタイマー撮影のチャンスを得た。その成果は大成功を収めた。イスタンブール、上海、テヘラン、マンハイムなど6都市、それぞれ各72時間でその都市と人物を撮影するプロジェクトも始めた。こうしてルイジさんは徐々に行動範囲を広めていった。
「カメラメーカーが機材を提供してくれるようになり、性能の高いカメラで撮影でき、助かりました」
脳裏に焼き付いた靴の山
ルイジさんがどうしてホロコースト生存者の撮影をするようになったのだろうか?
「18歳の時、アウシュヴィッツ強制収容所に行きました。そこで子供の靴の山を目にして言葉に詰まりました。現実に起きたことだとは想像さえできなかったんです。その時の強烈なインパクトは、ずっと脳裏に焼き付いていました」
「そして強制収容所へ連れていかれたユダヤ人やロマに興味を持つようになり、生存者を撮りたいと思うようになったのです」
「僕はドイツで生まれたイタリア人。でもイタリア人だからドイツの過去の負の歴史には関係ない、という気持ちで撮影を始めたのではありません。一人の人間として多くの生存者を撮っておくべきと思っただけ」
とはいえ、どうやって生存者を探し、撮影までに至ったのだろうか。
「生存者とのコンタクトは困難を極めました。きっかけはなかなか見つからず、情報収集もできなかった。そんな中、地元マンハイムにホロコースト記念館サンドホーフェンがあるのを知って、とりあえず行ってみたんです」
「そこで僕のプロジェクトのコンセプトを説明したところ、協力していただけることになりました。こうして生存者に会うことが実現したのです」
2014年9月、同記念館とマンハイム公文書館の支援を得て、ルイジさんは初めてポーランドから訪問した生存者を撮ることになった。
時間がない! 高齢化する生存者
ルイジさんが過去3年半にわたり訪れた国は、ウクライナ、ロシア、ポーランド、イスラエル、英国、アメリカなど。現在も撮影続行中だ。今では写真を撮ってほしいと生存者から連絡が入るという。
一方で、撮影を中断せざるをえない時期もあった。
「実は、生存者から体験談を聞くたびにその悲惨なストーリーを自分の中で受け止めて浄化させていくプロセスも至難を極めました。恐怖の中でどのように生き抜いてきたのかを知るにつれ、僕も涙し、震え、苦しみました。心が痛み、病気になってしまい、突発性難聴にも襲われ、撮影できない時もありました」
「とはいえ、高齢化する生存者を撮り続けるのは時間との闘いです。僕が撮った266人の中でも、すでに10人がなくなっています」
ルイジさんの写真は、アウシュヴィッツ強制収容所解放70周年記念の2015年、マンハイムで初めて展示された。そして16年、17年ウクライナ(16年にはヨアヒム・ガウク前連邦大統領も参席)、17年ベルリン、18年ニューヨークとワシントンと次々に展示会は展開中だ。
「ホロコースト生存者の写真は、すべて屋外で公開しています。屋内の展示会場は、敷居が高くて入りづらいという人もいます。僕の作品は一人でも多くの人に見てもらいたいので無料です。そのため、屋外展示にこだわっているのです」
今後の展望
「展示会は、多くの方々の協力を得て開催していますが、実現までの道のりは長くて大変です。公開地での認可申請、地元の賛同を得るなど諸々の書類手続きに膨大な時間を要します。でもそんなプロセスの中で、僕も多くのことを学びました。いざ実現となると、喜びはひとしおです」
「屋外で写真を設置する中で、多くの人と接し話ができるのは大変貴重な時間。なかでも若い世代との交流は、とても励みになります。写真を見て彼らが何かを感じとり、考えるきっかけになるはずと肌で感じることができるからです」
今後の展望は?と聞くと、こう答えてくれた。
「ありがたいことに生存者撮影は、順調に進んでいます。展覧会も引き続き開催していきたい。いつか戦争孤児も撮りたい。親を失った子供たちには身を引き裂かれる思いです。一人娘の父親としても・・・」
ルイジさんは、昨年ホロコースト生存者のドキュメンタリー映画も作成した。一般公開はまだ先になるというが、「日時が明確になったらまた連絡します」と言って、再びアメリカへ向かった。
生存者とルイジさんの交流や展示会の様子は100本ほど動画が公開されている。今年3月ワシントン・リンカーンメモリアルセンター屋外で行われた展示会オープニングセレモニーの様子をご覧いただきたい。