関ヶ原の戦い最後の生き残り!波乱万丈な人生も周りの協力を得た幸運な武将「宇喜多秀家」紹介
戦国時代の貴公子としてイメージされるのは、一般的に「上杉謙信」のような精悍な顔つきで有名な武将でしょう。
上杉謙信は整った顔立ちがゆえに女性説を囁かれるなど、謎多き美少年で話題がつきません。
今回は、そんな上杉謙信の裏に隠れたもうひとりの戦国時代の貴公子「宇喜多秀家」を紹介します。
苦労人の下剋上
宇喜多秀家は27歳の若さで、豊臣政権内で5本の指はいる権力者「豊臣五大老」になった天才武将です。
そんな秀家ですが、実は苦労人でした。9歳の時に父・宇喜多直家を亡くしており、長男である秀家はわずか10歳で家督を継ぐことになるのです。
国内屈指の内乱期である戦国時代で、少年が家族を背負って生きていくにはあまりにも苦労が多かったことでしょう。
豊臣秀吉は、そんな秀家少年に手を差し伸べます。
幼いながらも逞しく生きる秀家少年の利発さと温厚な性格を気に入った秀吉は、自身に子供がいなかったこともあり、秀家を息子のように可愛がったそうです。
妻との出会い
息子のように可愛がられた秀家は、秀吉の力添えもあって出世街道を歩みます。
個人的な戦闘能力など武将としての力は決して高くなかった秀家ですが、豊臣政権内でも存在感を放ち、成人後は秀吉の紹介で「豪姫」と結婚しました。
豪姫は前田利家の娘で、2歳の時に秀吉のもとへ養子に出されています。
秀吉は子宝に恵まれなかったこともあり、養子とはいえ初めてできた娘「豪姫」のことを大変可愛がりました。
豪姫に親バカっぷりを炸裂していた秀吉は、「とっておきの婿を用意してやるからな!」と意気込んでいたのだとか。
そんな豪姫の婿として選んだのが、秀家だったのです。
文武両道で戦国時代の貴公子ともよばれる美男子・秀家と秀吉が愛してやまない愛娘・豪姫の結婚は、秀吉にとってさぞ嬉しかったことでしょう。
秀吉の死と天下分け目の決戦
秀家の人生は秀吉と出会ったことで大きく好転し、すべてが順調かのように思えました。
しかし、天下統一を成し遂げた秀吉が1598年に病死。そのあとを追うように豊臣政権の片翼を担うような存在であった前田利家が死亡したことで状況が暗転していきます。
豊臣政権内では秀吉の後釜を狙った内部分裂が表面化し、ついには徳川家康を総大将とした東軍と、毛利輝元を総大将とした西軍のあいだで大きな戦争が勃発してしまうのです。
これは、大河ドラマや時代劇でクライマックスや話の中心として描かれるこの多い、天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」。
戦国時代を終結させた、歴史を左右するほどの一戦です。
秀家も西軍側の副大将として参戦し、大将の石田三成とともに戦いました。
序盤は、石田三成の奇襲作戦によって東軍を追い詰めていきます。
開戦時の兵は、西軍約8万人、対する東軍は7万5千人といわれていました。
しかし総大将である徳川家康は、まるで秀吉の死を察知していたかのように事前に内通者を仕込んでおり、西軍を窮地へと追い込みます。
徳川家康が仕込んだ裏切り者は相当数おり、西軍の兵として実際に稼働していたのは半分以下の「3万5千人」だともいわれているほど。
実父のように接してくれた秀吉の地位を奪われ、自分の思い通りにならない戦いは、秀家にとって言葉に表せないほど屈辱的だったのではないでしょうか。
意外と幸福だった?流刑後の秀家
関ヶ原の戦い後、戦場から逃げ出すことに成功した秀家は、しばらく家臣の協力を得て身を隠していました。
ところが6年後に、徳川の忍者に嗅ぎつかれて捕らわれてしまいます。
家臣や豪姫、その兄・前田利長らが助命嘆願に奔走した甲斐もあり、命こそ助かったものの、息子・2人と従者・11人と共に、八丈島への流刑に処されました。
当時の八丈島は絶海の孤島でしたが、もともと住んでいた島民の協力を得て、秀家は約50年をこの地で生き抜きます。
秀家が亡くなったのは1655年11月で、享年84歳でした。
これは関ヶ原の戦いに参戦した大名のなかで一番の長寿だといいます。
秀家の人生は決して順風満帆とはいえないものですが、常に周りの人々に恵まれた幸せな武将だったのかもしれません。
本記事中の一部画像を提供してくださった岡山戦国武将隊【公式】 様
Twitter(X):https://twitter.com/okayamasengoku